8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

江國香織『ひとりでカラカサさしてゆく』感想

 江國香織『ひとりでカラカサさしてゆく』を読みました。

ひとりでカラカサさしてゆく

 

 『去年の雪』を思い出す、多人数視点で紡がれる物語。三人の老いた男女が死に向かうまでの数時間と、彼と彼と彼女が死んだ後の世界の話。恩田陸の『灰の劇場』を読んでいるとなお味わい深いと思います。

 江國香織は湿っぽさがない。悲しさに湿り気がないのが魅力のひとつだと思っている。寂しいけれど明るい寂しさで、読んでいてそこまで辛くない。

 「堅物」を描くのも上手い。そして堅物でも、柔軟でも、誰もにどこか狂いがあるのが好きだ。人間誰もがどこか狂っている方が安心する。

 完爾も、知佐子も勉も、自分の芯を持った人間だった。その瞬間まで気概を持った人たちで、だから「弱って」とか「老いて」とか、そういう軟弱さみたいなものは感じずイメージとして適切ではないのだけれど、大木が倒れたことで開かれた空から光が注ぎ、倒木から植物の種が芽吹いたような図を想像する。彼らが死に、その後の世界も引き続き続いていく。

のもとしゅうへい『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』

 のもとしゅうへい『いっせいになにかがはじまる予感だけがする』を読みました。

 

 青山ブックセンターの文芸エリアで積まれていたものを手に取り購入して、その決め手は筆者の経歴に記載されていた在住地でした。その町の名前を冠する駅から見える風景が私は好きだったので。

 読みながら、不思議な感覚に包まれるお話でした。とくに好きなのは、街の中で魚が集まっていくポイントを知っているおじさん(おじいさん?)と、そのおじさんから魚を買いつける食堂のおじちゃんでした。ビニール袋に入れられた魚たち。海のない、魚屋があまり存在しないこの町に住む私にとって、魚とは白いトレイに並んでラップされたものなんですけど、確かにビニール袋に魚を詰めて買うこともあったよな、ということを考えていました。今は値上がりしてしまったけれど、例えばさんまを青いビニール袋に何尾も入れたり。

 そういう、個々人の細かな記憶と作中のエピソードが共鳴し合う、余白のある物語だったと思います。

澤康臣『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』感想

 澤康臣『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』を読みました。

事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方 (幻冬舎新書)

 

 筆者はジャーナリストだ。ジャーナリストがジャーナリズムについて書いた本だ。そう書いたはいいけれど、何か含みがあるわけではない。私はこの本を「ふむふむ、なるほど」と感じながら楽しんで読んだ。interestingの楽しさである、勿論。

 

 さて、私には、おそらく言語化していない数多の「嫌いな言葉」というものがあるけども、言語化しているもののうちの二つが「老害」と「マスゴミ」だ。理由は、簡単に言えば「単純化しすぎ」であり、さらに私が嫌悪を抱くのは、この言葉を使用することの危険性からだ。

 たとえば「老害」という言葉は、かなり意味が曖昧だと感じる。若者の躍進を阻害するというか、いつまでも権力の座に座り、若返りができない状況を嘆く意味もあれば、老い、思考が硬直化し、他人が眉を顰めるような醜態を指すこともあるような、気がしている。特に後者のニュアンスに近い使い方をする場合、私たちは「老い」というものをまだまだ対岸の出来事として見ているような気がするのだった。私たちは「老い」というものがどういうことなのか、本当に理解しているのだろうか。様々な機能の低下(ほんとうに?)、心身の変化を加味して私たちはそれを言うのだろうか。いつしか自分もまた「老害」と言われるかもしれない(いや、既に言われているのかもしれない)視座を持てているのだろうか。老害を語るには、まだまだ考えたいことが山ほどある。だから私はこの言葉を使わない。

 マスゴミも似ているといえば似ていた。確かに、職業倫理が欠けた振る舞いをするマスメディア従事者がいるのかもしれない。が、そうでない、実直に己の使命を全うしようとしているジャーナリストもこの世の中にはいるはずで、マスゴミという言葉を使用したところで、我々は自分たちの首を絞めているにすぎないと思うのだ。情報の運び手(であり、収穫者)である人々を自ら追いつめているに等しいので。

 この本を読みながら、そういうことを考えていた。

 ジャーナリストとはかくあるべし、という各国のハンドブックのようなものも載っていて、メディア学とかジャーナリストを志す人にとっての入門になりそうな気配がしている。特に匿名の考え方は、日本と欧米でかなり違うように感じた。そりゃあ、匿名性の旧Twitterのユーザーが多い国ですものね。この本を読むと、ちゃんと新聞読もうという気分になる。

武田砂鉄『マチズモを削り取れ』感想

 武田砂鉄『マチズモを削り取れ』を読みました。

マチズモを削り取れ

 まずタイトルがいいよね。「削り取れ」という言葉には、「こびりついている」というニュアンスが含まれる。それを削り取らないといけない、と主張する本だ。

 私にはこういうことについて話し合うことのできる人がほぼ皆無なので、他の人がどういうことを考えているのか知りたい。私は性自認が女性であるが、男性はどう思うのだろうか。わからない。

 これは私の考えなのだけど、感情と事実を分けて考えないと進まないだろうと思う。もちろん感情はとても大切で、作中の編集者の檄は尤も、そういう憤りが社会を変えていくと思うのだけども、一方で「戦略」も必要ではないか。私はあんまりそういう怒りを感じない、感じないでやってこれた、と思うので負い目がある。そもそも世界に期待をしていない、というのもある。

 そして、突きつけられた(と思っている)側も、感情と事実を分けて考えてほしい。そして大事なことなのだけど、別に「あなた」を非難しているわけではない、ということ(ただし「あなた」にも関係があることだ)。自分が攻撃された、蔑まれたと思って、拗れるのはお門違いだと思う。そう思うのも宜なるかなと思うけど。建設的に考えていきましょう、という話になる。学んでいきたいし、私も削る為の実践を考えていきたい。

星野青『月光川の魚研究会』感想

 星野青『月光川の魚研究会』を読みました。

月光川の魚研究会

 写真が付けられた小説は無条件に良い、というのは過言であるが、内容抜きで本の体裁としてそういう本が私はとても好きなのである。

 月光川の魚研究会というのは、聞き馴染みない言葉、どうやらバーの店名らしい。バーというのも良い。酒はちっとも好きではないが(嫌いでもないが)それ以外のバーの要素はとても好きだ。バーで本や書き物はしていいものなのだろうか。変な人に絡まれなければ、お酒を一杯飲みながら本を読んだり書き物をするのはとても楽しそうだ。バー、の密やかなそして無関心が保たれた静かな空間に憧れるので、この本は読んでいて楽しかったと思う。

稲田俊輔『おいしいものでできている』感想

 稲田俊輔『おいしいものでできている』を読みました。

おいしいもので できている

 真っ青な表紙。食べものに関するエッセイなのに、一般的に食欲を減退すると言われている色を使うのが、まずは面白いなと思った。そして内容も面白かった。極端に何かを好きな人の過剰な語りを摂取することで得られる成分、みたいなものがあるはずだ。筆者は高校生時代にホワイトアスパラガスを小遣いで買っていたらしいのだが、これだけで面白いのがいい。そんなテイストのエッセイが何本も収録されていた。エリックサウスのカレーはいつか食べる。

坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』感想

 坂本龍一『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』を読みました。

ぼくはあと何回、満月を見るだろう

 書き手の坂本龍一という人の気配が濃かった。そして、坂本龍一は、もうこの世にはいない。

 死に対する考察よりも、自分の生についてひたむきなテキストだったと思う。それは同じことを言っているようで、多分心持が大きく違うだろう。いかにして生きるか、死ぬ間際まで氏にはやること、やりたいことがあった。