8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

綿矢りさ『しょうがの味は熱い』感想

 綿矢りささんの『しょうがの味は熱い』を読みました。

 

しょうがの味は熱い (文春文庫)

しょうがの味は熱い (文春文庫)

 

 

 小説って、面白い。そんな風に思いました。とにかく表現が瑞々しい。この物語の設定は物珍しい内容ではないと思うのですが(私の実体験としては無いけど)何故、こんなに、不思議なのだろう。どうしてこんな風に書けるのか。エンターテインメントとして、娯楽として楽しむ小説読みの一方で、人間の表現の限界に挑戦しているようにも思えるこの小説。終始読みながら「がーーーーーーーん」と頭の中で銅鑼が鳴っていた。頭が痛い。それだけ心動かされたということです。

 この小説の書き出し

 整頓せずにつめ込んできた憂鬱が扉の留め金の弱っている戸棚からなだれ落ちてくるのは、きまって夕方だ。

で銅鑼が鳴った。「整頓せずに」そう、憂鬱というのは概して自分でも整理がつかない感情の集合体。「扉の留め金の弱っている戸棚から」夕日差し込む自室なんかは本当に心細くなったりする。その雰囲気、わかる。わかる、この感情知っている。それが166ページにわたり続く小説です。そして表紙を見てぎょっとさせられるのも一興です。

 

 表現のすごさにどかーんとやられて物語の内容まで踏み込めないのですが、「そうかー」という感じ。自分事としては感じられないかも、今のところ。

男女それぞれの視点から描かれる現代の同棲物語 『しょうがの味は熱い』 (綿矢りさ 著) | インタビューほか - 文藝春秋BOOKS

島本理生『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』感想

 島本理生さんの『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』を読みました。

 

わたしたちは銀のフォークと薬を手にして

わたしたちは銀のフォークと薬を手にして

 

 

 食べることは、生きること。島本理生さんは恋愛小説というイメージが強いけれど(確か嵐の松潤有村架純の『ナラタージュ』も島本理生さん原作の話でした)それ以上に私にとっては食べ物を瑞々しく書く作家さんだなと思う。今年島本さんの著作を何冊か読んでみての感想。「食」を通して色々なものが見えてくる。食べることはその人らしさを映す鏡のようなもの。

 『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』は、食の中でも「食べることは、生きること」を強く感じた。気持ちが揺さぶられたとき、何かを食べて回復する、ということもそうだし、四季折々の食材が美味しくなる旬を心待ちにし生きることは、すなわちゆっくりと生を味わうことだと思う。

 「薬を手にして」というタイトルに私は読む前に不穏なものを感じたけれど、それは杞憂だった。確かに薬を手にしていた。手にしなければ生きていけないのだ。ただここで登場する人たちは総じて自分にとって大切なものを見極めようと懸命に生きようとしている人たちで、何かに依存するとかそういうことではなかった。「薬を手にして」というと私は「依存」という言葉をまず思い浮かべてしまったけれど、そうではないよ、と。

 主人公の知世は様々な人と関わるうちに変わっていく。物語の最初の頃と終盤では同じ人物とは思えない。でも大した出来事があったわけではないんだよな、と。少しの出来事に対して彼女が感じたことが土台に、その先の時間が積み重なっている感じ。なんというか、物語というのは、えてしてそういうもののような気がするけれど、ついつい派手な何かがあるような気がしてしまうのはとても不思議です。多分私の人生も同じことで、今日、この感想を元に書き終わればまた私の人生が続いていく。この本を読んだこと、感想を書くこと自体は大したことではないと思うけれど、読む前と読んだ後では決定的に何かが違うのだ。それは不朽の名作だから、多くの人に読まれる名著だからとかそんなことは関係なく、本でも音楽でもアニメでも映画でも、誰かとの会話でも、仕事の失敗でも、何かがあれば何かが変わるのだ。その繰り返しが人生なのだと思っていて、私はその結節点?分岐点を出来るだけ書き残したいという欲求がある。というのはちょっと蛇足でした。

 作中、知世が女友達と箱根の星野リゾートに行くのだけれど、「星野リゾート」という固有名称がやけに生々しく私もお金と時間ができたら星野リゾートに行ってみたくなりました。

本多孝好『dele3』感想

 本多孝好さんの『dele3』を読みました。

 

dele3 (角川文庫)

dele3 (角川文庫)

 

  dele2の続きがまさか紡がれるとは…。今回も面白かったです。

 

リターン・ジャーニー

 3つめの目を持ちデジタル世界を監視していると人々に敬意と畏怖を抱かれる「ミツメ」こと夏目直が登場。この夏目という人物、化け物と評される人間でして考えがぶっ飛んでいる。

 夏目曰く、人間は情報を食べて生きていて、ある情報を与えたとき人間がどう変わるのか知りたい、とのこと。わかる…とは思う。人間は情報であるということ。確かに生身の人間ではあるけれど、自分以外の他者にとって確かに私は私という人間の情報なのだと思う。SNSの網がここまで張り巡らされたらなおのことだし、実生活でもそうだ。で、夏目のすごいところは、自分も人間なのにまるで神にでもなったかのように高次の存在と無意識に位置づけて自分以外の人間を「観察対象」としてしまえることだ。私だったら、人間のことなんて考えても果てがないような気がしちゃうけれど…。それに法則性なんてあるのだろうか、とか。自身の関心を突き詰めることができる能力と興味の強さが夏目の怪物たる所以なのでしょう。

 

スタンド・アローン

 「リターン・ジャーニー」で展開された夏目の持論に対して、堂本ナナミが出した答え。堂本ナナミもまた圭や祐太郎、夏目や今回データの削除を依頼した唯という少女という「情報を発信する有機的な装置」の情報を受信して変身したのだと思います。

 

 あなたのようにはできなくても、私がいるべき場所で、目を凝らして、耳を澄ましてみます。私たちが、ただの有機的な装置じゃないことを証明するために

 

 かっこいいなぁ。ナナミはdele.LIFEは今自分がいるべき場所ではない、他に自分がいなければいけない場所があると思ったということ。ただの有機的な装置じゃないなら、では人間は何なのだろう。何なのだろうな。私はパッと答えられない。ただ言えるのは、人を予想するのは難しいということ。法則があるのかもしれない、人が反応するときのルールがあるのかもしれない。でも本当に色々な情報で構成されて、その中身を全部解析するのが困難である以上、人間の心の動きを完全に把握するのは難しいということ。夏目が圭に執着するのは何故か、夏目がどんなに誘ったところで圭は乗らないということ。人間は、全然面白い。

 

 

恩田陸『猫と針』感想

 恩田陸さんの『猫と針』を読みました。

猫と針

 

 演劇集団『キャラメルボックス』で上演した戯曲。えええい。あと10年私が先に生まれていたら多分見に行っただろうなぁ…惜しいことをした。

 本編も面白いのだけれど(相変わらずの恩田節)そのあとの日記がさらに面白かった。舞台直前まであがらない台本。書籍化もしていることだし無事に舞台は終わったのであろうけれど、このぎりぎりさは読んでいてドキドキしました。締め切りが迫るなか原稿が書けないってのは私は体験したことない状況だけれど、すごく苦しそうだ…。

 「人はその場にいない人の話をする話」。思えば恩田作品は結構この要素があったりする。『黒と茶の幻想』はここにはいない梶原憂理の存在が始まりから終わりまで欠けることがない。私も最近旧友と再会することがあったけれど、この場にいない人間の話をかなりしていた気がする(不在の人間性が強烈ってこともあるのだけれど)。ここにいない人の話って無責任になりがちで、だから楽しい。気を遣うけれど目の前にいる人間について言及するのとはやはりちょっと違う気遣いがそこにはあって。その場にいない人は、その場にいる人たちの連帯を強めるのだなぁと思いました。

 タカハシユウコの最後の独白も印象的。よくわかる。私は文章や写真にしないと落ち着かないタイプかも(だからブログも書いている)。

 薄いしあっという間に読める本です。まだ読んでいない恩田作品あるもんだな。

江國香織『やわらかなレタス』感想

 江國香織さんの『やわらかなレタス』を読みました。

やわらかなレタス (文春文庫)

 

 江國さんのエッセイが好きだ。日常は言葉にできる、なんてことを読み終わった後のぼんやりとした頭で考えていた。

 気を抜けば日常=退屈でありふれたもの、と捉えることはできて、しかしその日常というのは有限なものである。限りがあるのであれば出来るだけ楽しみたい、味わいたいってのが私の中の核みたいなもので、エッセイというのは日常にパッと光を当てるように思っているから、私の考えに一致する存在。エッセイが好きです。

 こんな文章を書けない、と作家さんの文章を読むたびに思う。綺麗な文章。文体だけでなく個別のエピソードも作家さんそれぞれの切り口があって読んでいて面白い。江國香織さんは食と酒と犬と旅と物語。このエッセイ集はある程度テーマを絞っていると思われ、背の高さが揃っている。こんな風にエッセイを書いてみたい、と思ってしまった。私は鱈の話が好きです。

島本理生『君が降る日』感想

 島本理生さんの『君が降る日』を読みました。

君が降る日 (幻冬舎文庫)

 

 読後の余韻がすごい話でした。最後の短編『野ばら』がものすごく刺さったからかもしれないけれど、他に収録されている二編もとても良かった。

 詳しく書くとネタバレになってしまうけれど、とある主人公のそばにいる人のこんな言葉が印象的。

あーあ。あなた、やっぱり大変な恋愛をする人だったね。

 そうなのである。恋愛はただでさえ大変な(だと私は思っている)のにさらに大変な恋愛?をする人たちの話なのである。

 特に表題作『君が降る日』で印象的だったのは、食べ物がよく登場すること。そして私は食べ物をきっちり書く物語を好きになる傾向がある。と思っていたら、食べ物がよく登場することは解説で角田光代さんが指摘されていた。ふふん。少し得意げな私。

 料理が上手で食べ物を自然に生活に取り込んでいる矢部さんは多分「生」のイメージ。彼女が志保を明るい場所につなぎとめた、いわば「アンカー」的なものではないかなと感じました。

 これは小説あるあるだけれど、読み手であるこの私の価値観とまったく同じの人間は絶対存在しないわけで、小説を読んでいるとどうしても「なぜ?」という部分が出てくる。どうして「そんな」人間を好きになるのか、とか、どうして伝えないのだ、とか。私だったらこう思う!が出てくるけれどそこが面白いところ。物語の流れに身を任せ、とにかく登場人物の歩みを信頼するしかない。結末が私の気に入らないものだとしても私がそれに文句をつける筋合いはない。その無力さというか、手の届かないもどかしさに浸りながら、同時に、本当の本当のところは私の人生に対しても文句をつけられる人間などいないのである、と思ったのでした。

 谷川俊太郎さんの詩を久々に読んでみたいです。

彩瀬まる『朝が来るまでそばにいる』感想

 彩瀬まるさんの『朝が来るまでそばにいる』を読みました。

朝が来るまでそばにいる

 

 不覚にも、最後の「かいぶつの名前」を読みながら泣いてしまった。

 どの話もそこはかとなく「死」が漂っていて、そうだな、ちょっと不思議。彩瀬さんこんな小説も書くのか。今まで読んできた感じをみると、初めに読んで今一番好きな『やがて海へと届く』は彩瀬さんのミックスって感じだ。

 彩瀬さんの小説の好きなところ、たくさんあるけれど、今回はその一つ「苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい」の煮詰めたところの描写が冴えわたっていたように思う。こういう感情、ある。どうやったって、足掻いたって、解消されなくて地べたにぺたんと座り込んで泣きたくなるような辛さが、ある。その辛さを解消しようとする心の働きさえ億劫になる辛さが。で、思うに、そういう辛さがあるんだよ、と。存在は認めておこうよ、ってのが私の思うところで、その辛さにスポットライトを当てている気がするのだ。つらいつらいつらい、でも傍から見るとこんな風に見える。ちょっと外からの視点を入れてあげるだけでも、ただ辛い、が変容する気がしていて、だから好き。