8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

森博嗣「キウイγは時計仕掛け」

 森博嗣さんの「キウイγは時計仕掛け」を読みました。

 Gシリーズと呼ばれる作品群の中では10つのうち9つめ。このシリーズの今のところの最新刊は2016年だから、まだまだ続きはあるのだろうか否か。

 

 嵐の前の静けさなのか否か

 この作品、個人的には「嵐の前の静けさ」のように感じました。違う表現をすると「箸休め」的な何か。登場人物たちの時間が年レベルで経過していて、大学に属していたときより(といっても、登場人物たちの多くは学生ではないかたちで大学という空間に身を置いているのだけれど)こう「わいわいがやがや」というのが感じられなかった。それが私はとても寂しいと同時に、そういうものだとも思っている。

 この話が加部谷の目線を通して多く語られていることもあると思う。そういえば、このシリーズ、順番など関係なく読んでいるのですべての作品を読んだわけではないが、この巻でようやく「加部谷」さんの苗字の読み方の確信が得られた。「かべや」なのか「かべたに」なのか、判断がつかなかったのだ。第1巻でルビが振られていたのかもしれないし、作品の冒頭でルビが振られていたのかな、と思って読み返したら、この本の最初「登場人物」の紹介欄で、見事にルビが振られていた。私が単純に見落としていたみたい。正式な読みは「加部谷」で「かべや」でした。私はこれを、文章を読む中で、彼女の親友である雨宮純が「加部谷ぁ!」って叫んでいるシーンで発見しました。遅い。

 

気になる人物・雨宮純と島谷文子

 「雨宮純」という人物は、私は初めてでしたけれど、なかなかアクティブかつ健啖家かつサバサバという感じで面白かったです。西之園さんの友人・反町愛と被るのだけれどそれは仕方ないと思うことにします。

 島谷文子さんも久々。「すべてがFになる」で登場されていた方ですね、他にも色々と登場してくるのかな。

 今回印象的だったのも島谷さんを訪ねた犀川先生や西之園さんとの会話です。ここで「真賀田四季」の話題になるわけですが、島谷さんが彼女から距離を置けるようになったのはなんでしょう、女性である、というのもあるのかな、と思いました。島谷さんは2次元的なものにハマっておられるようなイメージ(「すべてがFになる」では)で、確かに何かに熱中する人間だとは思うのです。プログラミングの分野でも彼女は優秀な人物だし。だけど、同時にどこか冷めている部分もある方なのかなと思いました。だからこそ彼女の言い方をすれば「洗脳」されなかったのか。現実を独特の視点で解釈するところも一因なのだろうか。私は島田さんがSNSはやらない、見るだけだ、って言っていたあのくだりがとても好きです。

 

「ツイッタですか?」

「ええ、そう。みんな喜んでやっているけれど、利用されているって、どれくらい気づいているかしら。私はやらない。利用されるよりは、利用する側に回りたいから」

「僕もやりません。でも、常に見ています」

「同じ。SNSもね・・・・・・、まるで家畜」

「そこまで酷くはないでしょう」

「餌は何かしら、って思わない?」

「何でしょう。つながりたいんですよ、人間というのは」

 

 

 私の現実世界で、ここまで言い切ってしまう人と生で会ったことがないけれど、もし会ったらもう少しお話してみたい。あ、でも私は知識足らずかな。

 

意味は結局本人たちのもの

 この話は、結局犯人はわかったものの、なぜそうしたのかまではわからないまま終わる。消化不良かもしれない。でも、実際そういうものでしょう?ということを伝えるためには有用な手かも。

 犯人が示した奇妙なサイン。それがどういう「意味」だったのかは分からずじまい。推測はできるけれど、それが正解かどうかはわからない。身近なところでもそう言うことばかりだと思う。

 例えば、今年特に目に入るニュース「不倫」。これだって、結局は本人たちの問題で、どういうものだったのかを外部の人間が知ることは、できない。伝聞の連鎖が長くなればなるほど、余計なものは混じる。というか伝聞である時点でもう真実ではない。当事者にしかわからないことがある。当事者だからこそわかることがある。当事者だからわからないことがある。

 

 ということで、私は私が当事者になる問題をきちんと考えていこうと思いました。それすらも理解できるのか怪しいところなのに、他人のことなんてもっとわからないと思います。不倫は今のところ当事者ではない。

 

 読んでいて楽しかったです。加部谷さんと海月くんの関係はどうなるのでしょう。

 

キウイγは時計仕掛け (講談社ノベルス)