森博嗣『ηなのに夢のよう』感想

森博嗣さんの『ηなのに夢のよう』を読みました。

 

ηなのに夢のよう DREAMILY IN SPITE OF η (講談社文庫)

 

Gシリーズをここまで読んできて、全ての作品を読破できているわけではないけれど、作品群のなかで一番好きだと思った。

 

物語上で起こる事件は、「ηなのに夢のよう」という不可解なメッセージを残し、不可解な場所で連続して自殺する、というものだけど、結論を言うと、なぜそんな不可解な連続事件が起こったのかはわからずじまいだ。もちろん作中で登場人物が推論は述べるけれど、本当にその通りだったのかは分からない。自殺なのか他殺なのか。

この小説を読むにあたって「謎の真相を知る」ということを大事にしている人からすると納得いかない終わり方だと思う。が、私はこの物語の終わり方がとても好きだ。何故好きだと思えるのか、それを言葉にするのは難しいけれど、なんとか言葉にできたらいいなと思います。

 

Gシリーズと呼ばれる作品群の登場人物たちは、並大抵の人物ではない。私は彼ら彼女らが和気あいあいと喋っている描写がとても好きで、このシリーズを読んでいるのだけれど、話している内容は多分一般的ではない。少しずれていて、でも本人たちは普通に話している。会話が成り立っているしなんだか楽しそうだ。それは私の現実ではありえないものだから、もしかしたら好きなのかもしれない。つまり、私は彼ら彼女らに憧れているのだ。

そんな一般的ではない会話だけれど、シリーズに共通しているのは「死」について話していることだと思う。それは当然のなりゆきで、だって、1つひとつの物語で必ず不可解な死亡事件が起こるのだもの。彼ら彼女らは出会った事件について考えをめぐらせる。これは不思議だね、どうしてこんなことが起こったのだろう、どうしてだと思う、こんな考えはどうでしょうか、と彼ら彼女らは楽しそうに喋る。自然に、当たり前に。今日いい天気だね、と同じレベルで、彼らは死について話し合うのだ。

死について考えると、自ずと「人生観」みたいなものが透けて見えてしまう。死があるからこその生だから。死ぬことをどう捉えるかで、生きることの捉え方も変わるのではないかと私は思っている。死ぬから生きている。これだって、私の人生観の1つだろうし。

ということで、彼ら彼女らの死の話を自ずと私は文字を追いながら聞いていく。これまら「一般的に」という言葉を使うけれど、一般的に彼ら彼女らは死に対してとても冷たいような気がする。冷たい、というのは「冷酷」というよりは「テンションが低い」というニュアンスだろうか。もっと「死」というのはイベント的なものではないのか。不謹慎だけれど「祭り」のような。平穏な日常に突然割り込んでくる「非日常」。だから人間の感情は揺さぶられるし、社会には波紋が広がる。だけど、彼ら彼女らはとても温度の低いところで話している。死との距離間がなんだかおかしい。そんなところが私は好きなのだけれど。

こういう会話を、私も実生活でしてみたい。もっと温度を低くして喋りたい。

 

登場人物の一人、西之園萌絵にとっても、ターニングポイントになる作品になるでしょう。遠ざけてた死に直面し、身近な死と新たに対峙する。過去では拒絶した死を、現在では受け入れようとする。それも過去の出来事があったから。空白の時間は、しかし、空白ではなかった。彼女にとって必要な空白時間だった。というような気がしました。読んだ人なら、どのことを指しているかはわかるかと思いますが。

 

この物語の人物のように、普通にありたい。一般的じゃなくても、普通の人のように見えて普通じゃなかったりしても、普通であるように普通でない私でありたい。普通じゃない人間に憧れてしまうのは、まだまだ中二病が抜けきれていない証拠なのでしょうか。

 

と、こんなことをつらつらと考えました。

私は普段、本を手元に置かない人間ですが、この本はぜひ手元に置きたいと思いました。機会があれば読みなおそう。水を飲むがごとく。

 

 

森博嗣ηなのに夢のよう』を読みました。