森博嗣『ジグβは神ですか』感想
まずこの作品はタイトルの音の響きが絶妙だと思いました。
「ジグβは神ですか」「じぐべーたはかみですか」「ジグベータハカミデスカ」・・・。今までのGシリーズの作品のなかで一番音の響きが好きだなと思いました。
タイトルは一見すると意味が分からないし、物語を読み終わっても意味はわからないけれど関係がないとまでは思いませんでした。つまり読んでいれば「ピン」とくるものがあります。ジグってそういうことなのね・・・。
今回主に登場するのは、加部谷、雨宮、山吹、海月、そして水野涼子。西之園さんはあまり出てこないし犀川先生は何をやっているのかぐらいしかわかりません。あとは瀬在丸さんが登場します。真賀田博士は雰囲気だけ登場します。でも博士に関しては常に影として雰囲気としてそのあたりに登場しているシリーズなので、「登場する」なんて今更でしょう。
私は海月くんという人間がとても気になるので、彼の一挙手一投足に注目しているのですが、今回は妙に山吹さんが気になってしまいました。物事に対する彼の距離感について考えていたのです。山吹さんはとてもニュートラルな人だなと思います。物事との距離間が均等だと思います。意図しているとは思いませんが、とても不自然だと私は思っています。機械みたいに思えるのでしょうか。海月くんの方がよっぽど機械っぽい気がするのに。自分自身が感情ジェットコースターのような起伏の日々を生きているからでしょうか、山吹さんの一定な感じに憧れのようなものを抱いてしまうのかもしれません。真賀田博士に対する姿勢も同じで、博士をすごい人だとは思っているのでしょうけれど、信仰はしていないような気がします。加部谷さんですらちょっとした信仰に入っていると思うのです。真賀田博士は凄い、天才と思うことは、彼女が異質であり己とは異なるものであるという認識と同じ。いや、山吹さんも博士は凄いと思っているのだろうか、わからなくなってきた。つまり言いたかったことは、山吹さんって自分の事も言わないけれど世界に対しても非常にニュートラルでふわふわ生きている人だよね、ということでした。そういう山吹さんが私は好きなのです。
このシリーズを読んでいると、死ぬことあるいは殺すことそのものは意味がないように思えます。というか自殺する人、殺人を犯す人にとって意味がない。死+何かでもって初めて意味が生まれるのでしょうか。普通世の中で起こっている死(自殺も他殺も)は、死ぬこと、殺すことに目的があるのでは?そうか、死は目的じゃなくて手段であることを示す物語なのかもしれません。意味に内包されている死。
物語だからこそ、ありえていい話。現実にこんなことがあったら、やっぱりそれは「ダメですよ」と言わないとダメなのでしょうね…。私も現実にはこのような死が発生しないことを願っております。とりあえず、死なないでおきましょう。