長嶋有『夕子ちゃんの近道』感想

長嶋有さんの『夕子ちゃんの近道』を読みました。

夕子ちゃんの近道

 さっぱりと、淡々と読むことができました。

それが、とても良い。

 

小説を読む行為には色々なものがあって、例えば読み手である自分が置かれている環境とは全く違う世界の話に浸りたいとか、あるいは自分が悩んでいることに対して何か光を求めていたりだとか、何も考えずにただ鳥肌が立つような興奮を求めているとか、なぜ本を読むのか、本を読んで何をどうしたいのか(あるいは何もしたくないのか)色々あるけれど、「淡々と心穏やかな時間を過ごしたい」というのも1つある。この小説は、そういう気分の時に読むといいかもしれない。

ドラマチックな何かは起こらない。感情の起伏が少なく、じわじわと物語が進み、そのまま終わる。

劇的な何かはないけれど、この小説は緩やかな変化を描いている作品でもあると思う。始まりがあり、終りがある。そしてまた始まる物語だ。

生きることってこういうものなのではないか。自分には何もなくて退屈でありふれていて。時々自分の人生をそうやって悲観したくなるのだが、違う。そういう何気ない日常を愛おしむことができたら、きっと人生はもっと豊かになる。多分。

 

この小説を読んでいると、端々の些細なものが愛おしくなる。瑞枝さんのスクーターってどういうものなのかなとか、フラココ屋というアンティークショップ行ってみたいなとか、暖房器具のない冬の部屋はさぞかし寒いだろうなとか。階段とか鍵とかコーヒーとかワインとか箱とか色々。

もっと自分が生きる世界を注視したいなと思ったのでありました。

 

あと、この小説の視点である主人公の名前が明かされないまま物語が自然に進むのも面白かったです。そうか。パラパラめくっていたら気がついた。視点である人物の存在は色が濃いのにその人物は「僕」も「俺」もないのだ。

 「〇×△・・・・・」僕は言った。

みたいな文章がない。嘘でした。ありました。でも少ない。この人物は「僕」と自分のことを示しているけれど、「僕が」少ない。面白いなぁ...。

 

 

ということで、こんなことを考えておりました。

さっぱりしました。いい感じ。

 

長嶋有さんの『夕子ちゃんの近道』を読み終わりました。