8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

伊坂幸太郎『死神の浮力』感想

伊坂幸太郎さんの『死神の浮力』を読みました。

死神の浮力 (文春文庫)

なんと言っていいかわからない作品でした。

それは評価に困るというよりは、どんな感想を抱いていいのかわからない、という意味です。

 

伊坂さんの話は2018年からちらほら読み進めているのですが、伏線が丁寧に張り巡らされ、「これは後で登場するのだろうなぁ」とわかっていても驚ける演出とか「ああ、でてきたでてきた」と自然とにやけてしまうところが好きだし味の1つだなと思っています。

『死神の浮力』でも「あの時登場したあれ」が終盤にかけてたくさん登場します。フィクションだからこそできる運命的なつながり、を感じました。現実じゃ絶対ない。神の視点を持ち物語に干渉はできないけれど物語を俯瞰してみることができる読者の特権。それが伏線がつながる様子です。

 

「現実では絶対ない」と言えば、死神の存在にも言えるでしょう。ただ本当に「絶対ない」のでしょうか。私はまだ幸いにも死神に会っていないだけで、もしかしたらこの世の中には死神は存在しているのか。「死神シリーズ」で登場する千葉のような死神が。確か科学の領域での話ですが「絶対に無い」「存在しない」ということを証明するのは、その逆より難しいそうです。宇宙人も同じかな。

 

最初に「どんな感想を抱いていいかわからない」と書きました。それは死神・千葉の存在があるからです。

今回、死神・千葉が生死の判定(大体は「可」つまり死亡決定)をするため7日間観察する対象は、山野辺という男。妻の美樹がいて、娘の菜摘が「いた」。過去形なのは娘の菜摘は何者かに殺害されたから。殺害した相手はわかっている。知り合いの本城という男。逮捕されたけれど、裁判では無罪になった頭がよく狡猾で倫理意識が欠如している怪物ような男。山野辺夫婦は拘束を解かれ自由の身となった本城を殺したい(痛めつけたい)と思っている。自分の手で。これは山野辺の復讐劇に死神・千葉がどう関わるか、という物語。

あらすじは、こんな感じ。とにかく本城という男がとてもひどく描かれていて、作中なんども「サイコパス」という言葉が出てきます。本当にサイコパスというものがあるのか、本城という男はサイコパスなのか、私にはよくわかりませんが、とにかく本城は血も涙もない、金や私怨で人を殺害する人間とは少し違う動機で人を殺し人をいたぶる人間でした。

本城に対して怒りを感じるしかない山野辺夫妻と、本城に対して怒りも悲しみも共感もない死神の千葉。この対比がユーモアを交えて描かれている作品です。面白いです。山野辺夫妻は徹底的に人間として当然の感情を抱く。死神・千葉は人間ではないから見当違いのことを言っている。10年前の私なら、もしかしたら死神の千葉に怒りや苛立ちを抱いたのかもしれませんが、今の私は不思議と穏やかに読むことができました。

その理由としては色々あるのですが…。

多分第三者目線で読んでしまうから、でしょうね。私は周囲の人間の気分と反対のことをしたい、という天邪鬼なところがあって、誰かが落ち込んでいるととにかく元気に気丈夫振舞いたいし、逆に周囲がお祭り騒ぎだとツーンと冷めているところがあります。『死神の浮力』でも山野辺夫妻のある意味冷静だけれど鍵が壊れている心のありようが怖くて怖くて。「すごくわかるけれど、でも…」とか「やっぱり本城に拘らないほうがいい、彼から離れて生きたほうがいい」とか、そういうことばかり考えていました。本城が敷いたレールに乗る必要なんてどこにもないのだから。

 

最後にもう1つだけ感想を。

山野辺氏の復讐劇の末はぜひ読んでいただきたいところです。

が、私は裁かれない極悪人もいると思います。無垢な命、善人が命を落とし、極悪人が強かに生き残る。この世には神様はいないし、いたとしても神様はこの死神のようにどこまでも公平です。だから、私は酷い行いをした人は一瞬だけ「絶対幸せに生きられないときがやってくる」「ロクな最期を送らない」と願って忘れることにしています。

山野辺も本城も、そういう意味では妥協せず徹底的に最期を生きた人たちだったのでしょうかね。感想が難しい作品です。

 

 

ということで、伊坂幸太郎さんの『死神の浮力』を読み終わりました。