8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

不思議に近づき、不思議をそのままに/森見登美彦『ペンギン・ハイウェイ』感想

 森見登美彦さんの『ペンギン・ハイウェイ』を読みました。

ペンギン・ハイウェイ (角川文庫)

 

 最初に言ってしまうと、私、この話大好きなんです。

 年1回ペースで読んでて、今回は通算3回目。毎年夏が近づくと自然と存在を思い出してしまい読みたくなる本です。2018年には映画も公開され、こちらもまた好きな映画になったのですが、原作も大好きなのです。

 何故好きなのか。考えた理由はいくつかあります。

  1. 世界の不思議を切り取っているから(SFっぽい)
  2. 小学4年生のアオヤマ君が見た世界の純度が高いから
  3. ノートを大切にするから
  4. 喪失の物語だから
  5. 登場する人たちがみんな良い人たちだから(2と関連)

 1.はそうですね。突如現れたペンギンたちがどこからやってくるのか。お姉さんという人物は何者なのか。《海》とは何か。日常に溶け込みながら、絶対的な不思議がそこにあって、そのバランスが絶妙なのが好きなのだと思います。不思議を過剰に持ち上げないところ。日常があって冷静に不思議が存在するところ。

 きっと。きっと。大人になったら。あるいはそれほど不思議に興味がない子どもだったら、ペンギン出現にもっともらしい理由をつけてあとは忘れちゃうと思うのです。不思議があったところでそれを深堀することはしない。でもアオヤマ君は純然たる気持ちで不思議と真面目に向き合うわけで、それが楽しそう。こんな気持ちで世界を観察出来たら楽しいだろうなぁ、というある意味ではアオヤマ君が羨ましい。

 2.は、なんというか、思春期前の年頃ということもあり、アオヤマ君の関心が《内》じゃなくて《外》に向かれているからだと思います。そしてアオヤマ君はとても理を重んじる人間なので、人間の非合理的な行動にピンとこない(スズキ君の行動とか)。ピンとこないものは、彼の中では研究対象になるからお姉さん研究になるしスズキ君帝国の研究になる。見えている世界と「この世界を見ている自分とは何か」が切り分かれているので彼が見る世界が綺麗に見えるのではないか。私がアオヤマ君と同じことを思ったとしても、そう思う自分は何か?という視点がどうしても入っちゃって、なんか作為的というかわざとっぽく見えちゃう気がする。

 3.は私がノートが大好きだからです。思うのだけど、アオヤマ君はあくまで紙ベースで観察記録を残しているのであって写真とかは撮ってないのですよね…ペンギンを撮るのではなくノートに模写する。仮に、お姉さんや《海》をめぐる不思議が写真や映像に撮られていたりしたら(そんな描写があったとしたら)こんなにドキドキすることがあるだろうか。

 喪失の物語というのは、例えばお父さんとお姉さんの会話やウチダ君の壮大な研究、そして何よりお姉さんとの《冒険》からひしひしと感じます。特にウチダ君の死にまつわる研究はとても興味深い。私は嵐の日にアオヤマ君の妹がいつか来る別れが怖くて震えるシーンがとても好きです。

 そして最後は登場人物たちの良さ。みんな良い人(スズキ君たち含め)。こんなに穏やかな世界なんてあるわけがない。そう思わせるくらい、みんな良い人で家庭環境も良い印象を受ける。(アオヤマ家に生まれたかったぜ私は!)

 でもそれはあくまで「アオヤマ君から見た」世界であり人々であって、きっと仲睦まじいアオヤマ家の両親も喧嘩するときはするし(でもそれでも仲がよさそうなご夫婦だ)お姉さんだって海辺のカフェの店主さんだって誰もが生活をしなければいけないし、ウチダ君のお父さんは通勤電車でくたびれるかもしれない。でも、それはアオヤマ君が知らないことなのだ。知らないから語りとしても現れることがない。そういうことまで考えて、やっぱり楽しい話だなと思います。世界が限定されているが故の残酷さはあるのかもしれないけれど。

 

 ペンギン・ハイウェイの世界は、私にとっては憧れの1つなんです。アオヤマ君みたいな探求心が欲しいし、お父さんのような知性と落ち着いた感じも欲しいし、お母さんみたいな「あらあら~」とにこやかに動じない強さも欲しいし、憧れなんです。

 

 最後にこれだけ言わせてくれ。原作でも好きだし映画の感想にもなるのだけど、ハマモトさんがスズキ君にガチギレするシーンがものすごいので、今からDVD借りにレンタルショップに走りに行ってきます。

 森見登美彦さんの『ペンギン・ハイウェイ』を読み終わりました。