8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

アガサ・クリスティー『白昼の悪魔』感想

 アガサ・クリスティーの『白昼の悪魔』を読みました。

白昼の悪魔 (クリスティー文庫)

 

 クリスティーの「やり口」はわかっているんだ。まだまだ読み切れてないがそれでもクリスティー作品を読んできたのだから。でも、犯人がわからない。当たらない。結末に驚く。読者としては「良い」読者かもしれないが悔しい。悔しい。

 どうして当たらないのかというと、クリスティーのずらし方が巧いからだ。焦点となる事柄を上手いこと散らしていく。証拠や不審な言動、つじつまが合わない事象、動機。それらの情報が実に巧みに全体に散りばめられている。ポアロの推理法はそれら一つひとつをパズルのピースと考え一枚絵にはめていく方法だけれど、ポアロシリーズでなくても基本的には同じだ。焦点がずれていく。クリスティーによってずらされていく。

 今回の犯人については最初の頃に既に怪しい点はあった。ああ、この人が犯人かなと思った。でも不審に感じた点はその後次々と舞い込んでくる数多の情報によってうやむやになってしまった。おそらくポアロはすべての情報を等価に考え続けることができるのだろうなと思った。等価に考えた上でそれらの信ぴょう性や重要性を判断している。つまりこれはパズルのピースかどうかを正確に見極め、かつ、パズルのピースは平等に扱うのだ。私はパズルのピースを自分が持っていたことを忘れてしまった。私はポアロではない。ただの読者である。

 利害関係が(一見)なさそうな、職業も年齢も性別もバラバラな人たちが事件に巻き込まれていく、そこに生まれるある種の連帯感というか共同意識みたいなものが面白いと思った。この話では終盤でポアロのアイデアでピクニックに行くことになる。普段そういう集まりはなかなかない。どれかの属性が一致している人たちの集まりがほとんどではないか。だから、解決するまでとはいえ、バラバラな人たちがある程度一緒にいなければいけない、行動が制限されているような状態において形成される秩序というのは、眺めていて面白いし、ちょっと憧れるのかもしれない。もちろん殺人事件など起こらないに越したことはないのだが!起こっては駄目なのだが!

恩田陸『夢違』感想

 恩田陸の『夢違』を読みました。

夢違 (角川文庫)

 中学高校の時に読んだと記憶しています。久々に読んでみました。

 「あれは何だったの?」

 恩田陸作品を読んでいると、しばしぶち当たる難問です。

 私は恩田陸作品が好きですが、その良さを、登場人物の聡明さとお喋り度の高さ、読んでいてしっくりくる文体(私にとっては読みやすいのです)に見出していて、「あれは何?」の謎の全容が必ずしも明かされなくてもいいや、という感じです。ただ散りばめられた謎すべて明らかにしたいという人にとっては、もしかしたらモヤモヤする作品もあるのかもしれないなあ、というのはわかります。

 が、考えてみると、すべてが明るみになることってあるのかしら?と思うのです。私たちの日常はわかりやすい謎があるわけではありませんが、日々は妥協の連続です。よくわからないまま月日は流れていくのではないかしら。すべての謎に対する回答を用意しなければならないのかしら。むしろ『夢違』の怖さは、このわからなさにあったのではないか。そう考えると、読み終わってもモヤモヤした状態は『夢違』という作品においては、なんというか、説得力がある気がします。

 そう、『夢違』は読んでいてとても怖かったです。ホラー小説は読まないですが、ただ文字を追っているだけなのにこんなに怖いなんて。ましてや、夜、眠る前に読みだしてしまったからなおさら始末に負えません。その日は夢を見なくて(覚えてなくて)良かったです。

 SFの要素もホラーの要素も混ざったエンタメ小説だなと思います。恩田さんはジャンル問わず様々な作品をよく書くなあ…。すごい。

江國香織『ホリー・ガーデン』感想

 江國香織『ホリー・ガーデン』を再読しました。

ホリー・ガーデン (新潮文庫)

 今年の三月ぐらいに図書館で借りてもう一度読みたいなと思ったので文庫本で購入後、読み直しました。

 一つひとつの章が短いので、一章読むごとに「ふう」と息を吐きだし、茶でも飲み、再び「よいしょ」と読み始める。そういう本だと思います。

 わかりやすいことはないのだな。

 江國香織の小説は「わかりやすさ」の対岸に居て、だらだらと人間のことが描かれている様はあるべき姿、もっともらしいを感じます。

 最近の私の関心事は、いわゆる二次元のキャラクターのユニークさというある種の磁力みたいなものにするすると引っ張られていく己の心であり、彼ら彼女らのわかりやすさは非常に悪魔的な強さだ。

 人はもっと混沌としたわかりにくい生き物だろうに、アニメでもドラマでも漫画でも、そして小説でも、痛切明快なキャラクターが活躍し、私は彼ら彼女らの個性を消費する。どうしてそんなことになるのかというと、身近な人間にはわかりやすい人間など誰一人としていないからではないか。厄介で煩わしいからこそ、わかりやすい人間のわかりやすさは楽なのだ。

 果歩も静枝も中野も芹沢も、人物紹介のページで100文字以内でその人となりを語ることはできないだろう。300ページ超にわたり彼ら彼女らのことをだらだらと描いたこの小説が、私はやっぱり好きだ。

江國香織『彼女たちの場合は』感想

 江國香織さんの『彼女たちの場合は』を読みました。

彼女たちの場合は

 

 面白かったな~。なんだろう、特別何かが起こるわけではないのだけれど、常に何かが起こっている小説だなと思いました。もちろん起こった出来事から驚くべき出来事をピックアップすることはできるのだけれど、それは私から見た驚くべき出来事だし、彼女たちの場合は違うのかもしれない。『なかなか暮れない夏の夕暮れ』と似ている小説かもしれないです。そもそも、ストーリーがひとつの山の形(てっぺんが一番大きな出来事)になっていないのが江國さんらしいと言えばそうなのかもしれない。

 

dorian91.hateblo.jp

 

 以下、気になったところを箇条書き。

  • 食べることとお風呂を愛してやまない江國作品の登場人物たち!
  • その中でも逸佳は食べる行為を「ちゃんと」大切にしていなくて、いい
  • 彼女たちの旅から波紋が広がり、彼女たちの家族に及んでいく過程も良い
  • 残りのページが少なくなる=彼女たちの旅も終わりに近づいている

 

 この小説は毎日少しずつだらだらを読みたい本です。それが叶わないなら、たっぷりと時間に猶予がある時にまとまった分量読みたい。長編を読むのは楽しいですね。エッセイとも短編集を読むのとも異なる満足感があります。

アガサ・クリスティー『終りなき世に生れつく』

 アガサ・クリスティーの『終りなき世に生れつく』を読みました。

終りなき夜に生れつく(クリスティー文庫)

 

 人が死ぬことはわかっている。が、なかなか死なない。その「なかなか死なない(≒ 事件が起きない)」がポイントだったのだなと気が付いたのは読み終わった後。この本を読んだことがない人が、この本のネタバレを踏まないことを願います。

 

 

 

 

 

 

 『ナイルに死す』と合わせて読むとより内容を深められそうだと思いました。『ナイルに死す』は、第三者であるポアロの視点で進む一方で、『終りなき世に生れつく』はもっと近い立ち位置で事件を見ているから。この二作品は事件の構図は一緒。ただどの立場から描かれてるか、どの視点に立つかで、こうも見え方が変わるのかという違いを楽しみたいところです。

 エリーは一体どんな気持ちで生きていたのか。何か思うところがあってもなお、マイクを信じたのか。自分のこれまでの生活から抜け出す為の糸として。引き返せなかったのか。マイクを信じていたのか、信じていなかったのか。エリーの胸中がわからないということが効いていて、読後においても、想像の幅を持たせてくれる作品です。なんにせよ彼女が死ぬ瞬間何を思ったのか、想像するのがつらいです。

宮部みゆき『悲嘆の門』感想

 宮部みゆきの『悲嘆の門』を読みました。

悲嘆の門(上)

 

 再読。『英雄の書』と繋がっている世界観になります。友理子も登場します。

 宮部先生の作品は、物語の背景にある社会をしっかりと書き込むところに一つ特徴があると思っていて、人間の感情をどろどろに煮詰めて出来上がった悪を描くのが本当にすごい。今作でも「一体これはどうしたらいいんだ」と頭を抱えてしまう悪が登場します。

 生きる「領域」に非ざる存在、ガラにより人々の言葉が具象化して視えるようになった孝太郎は、本来なら視えない、人の心に澱む言葉を視ることになるわけですが、私なら耐えられないだろうなと思います。よく「人の心がわかったら…?」という超能力が描かれたりするけれど、超能力の中でも人の心を読む系のものは、私は遠慮したいな。

 『英雄の書』の友理子も今作の孝太郎も、人の話を全然聞かなくてそういうところにイラっとさせられてしまう一方で、自分で納得しないと進めない、彼らの頑固さだからこそ物語が動くのだろうと思います。「ああ、そうか」と受容することが良いわけでもない。

 言葉に欲望に飲み込まれ、ガラによって刈り取られると形を失う人々の描写が、先日読んだ、恩田陸の『光の帝国』の「草取り」にも通じるものがあって、人間というのは見た目だけではわからない、内面にはもっと混沌とした何かがある、ということが前提とされていることを興味深く思いました。私もその立場をとりますが(例えば、酔いは人の隠れた本心を露わにするもの)その混沌は、本来、人が見るものとして考えられてないのだろうな。理性とかそういうものを考える。なむ。

 「無名の地」も「始源の大鐘楼」も、この世の真理とも言える領域に触れた孝太郎はこれからどうするのかしら。『英雄の書』でも、「無名の地」に立ち寄った数少ない人々が記録に残したりしている、的な描写があったのだけれど、おそらく孝太郎もそういう人間になるのだろう。とても奇異な体験をしたことは間違いない。大学に入学してこれといった道が見えない、日常に退屈していた孝太郎のこの先の人生がどんな風になるのか、描かれないものの私はとても気になります。

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』感想

アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を読みました。

春にして君を離れ (クリスティー文庫)

 

 正確にはアガサ・クリスティーとは別の名義で公開された作品らしいので「アガサ・クリスティーの」と言うのは憚られる気もしますが、とにかく読みました。

 この本を読み終わって最初に感じたのは、「この本をもっと人類が読んでいたら、かくも殺伐とした世の中にはなっていなかっただろう」ということでした。直感的な感想ですけれど。しかし次の瞬間また別の感想が浮かんできました。「この本は読んだ人間によって感想がまったく異なるだろう」ということです。

 

 私はこの本を読んで、ジョーンの夫ロドニーも彼女の娘息子も大変だったなと同情的な気持ちになったのですが、しかし一方で、ジョーンの認識の歪みを正さず結局彼女を憐れむ道を選んだ夫や子どもたちだって悪い、という感想があるのを知りました。その感想を読んで私は居心地が悪くなったのです。

 家族の問題に対し、真正面から向き合うことは一つの選択であり正解だろうと思いますが、たった一つの正解ではないと思っています。ジョーンの選択、ロドニーの選択、彼女の子どもたちの選択をとりあえずは尊重するとして、さてそこから読者は何を学ぶのでしょうね。

 印象的だったのは、物語の舞台です。ジョーンは思わぬアクシデントにより旅の帰り道、人がいない、寂れた荒野(というか砂漠?)の中の鉄道宿泊所に留まることを余儀なくされます。話す人もいない、読む本も尽きた、そんな状況で彼女の胸に去来する数々の疑惑の過去。この舞台が整って彼女はある種の悟りを得るわけですが、ここから言えるのは、人間というのは、時々は一人になることが必要なのだな、ということでした。日々に忙殺され自分のことを考えないことが続くのは少し、不幸?な気がします。自分の為にも、自分の周りにいる他者にとっても。

 楽観的な見方をすると、ジョーンの子どもたちは既に彼女から物理的に離れているわけですし、今までとはまた違う距離感で関わることができると思います。彼女が日々の落ち着いた時間で、荒野の中で得た気づきを思い出せば、あるいは…。