8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

森達也『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』感想

 森達也『虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』を読みました。

虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか (出版芸術ライブラリー)

 

 ずっと前に『A3』を読んだ記憶がある。あとはドキュメンタリー映画『FAKE』も観た。

 本書の感想とは全く違う話だが、行きつけの美容室で髪を切ってもらっていた時に美容師さんと会話している最中にどういう話の流れか意味が分からないけれど(長年髪を切ってもらっているので慣れている間柄ではある)

「仇討ちの刑とかないんですかね~、でないと被害者の周りの人は浮かばれないでしょう」

という話になった。

 いや、法というのは確かに万能ではないけれど愚かな人間を止める歯止めとして長年人類が積み上げてきた仕組みなんですよ、それで今の刑法で仇討ちが認められていないならそれはそれ相応の理由があってまずはそこに思いはせるべきではないでしょうか。

 そう語ることもできたのだけれど、ドライヤーの音に私の声はかき消されそうなのでやり過ごした。そうして私は髪を乾かしてもらいながら先日読んだ『虐殺のスイッチ』のことを思い出した。人間は愚かな生き物だ。何千年の歳月を経て変化した部分以上に生物として変わらない一面があるのだと思う。それをいかに制御するかという問題だと思うけれど? 虐殺を起こさせないって、そういうことじゃない?

 世の中の空気があんまりよくないと思っている。火花がいつ大きな火になってもおかしくない。大きなうねりとして極端な方向に走っていったとき、私はそれに抗うことができるのか、わからない。たぶん流されてしまうだろう。そもそも大きなうねりを起こさせないことはできるのか。個人レベルで何をどのように表現すればいいのか。さらに言えば私が虐殺の実行者になる可能性に思いはせること。

 そういうことを考えさせられた本でした。

ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』感想

 ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』を読みました。

働くことの哲学

 この本が教えてくれたこととして、心に刻もうと思ったことが1つある。それは、「仕事とは何か」という問いに対する答えは有史以降常に変化を遂げてきたし、これからも変容していくだろうということだ。このことからわかることは、もし仮に仕事について悩んでいるとして、その「仕事」というのは絶対的なものではないし、仕事に関する悩みも必然的に絶対的なものではないということだ。

 

 ということで、この本の感想は以上になるが、この「働くこと」については今後も考えていきたいトピックなので、私の中で引っかかっていることを整理しておく。

 

 学生時代からアルバイトをするようになり今まで、疑問に思っていることがあった。それは、己の労働に対する賃金をどのように評価すればいいか、まったくわからないということだ。理想主義的だという自覚はある。

 お金がなければ生きていけないので私は働くわけだが、賃金と同額のお金を毎月口座に振り込まれても、私はたぶん働くだろう(とはいえ、生産性は劣るかもしれないが)。いつも思う。口座に振り込まれた金額を見るたびに「これが私の労働の対価でなければいいのに」と。つまり私は「賃金」というものがよくわかっていないということになる。

 能力に応じて、成果に応じて給料が増えるというのもよくわからない。例えば同じような仕事をしていて、AさんとBさんで生産性に違いがある、だから給料にもそれを反映する、というのはわかる。けれど、AさんやBさんの仕事とは別の仕事をしているCさんの給料と、AさんBさんの給料が異なるとして、その根拠づけがよくわからない。多分、明確で納得できる理由付けはないはず。危険な仕事や高度な技術が求められる仕事なら給料はそれ相応に高くなる、というのはわかる。が、この世の中、危険でも高度な技術が求められなくても必要な仕事はあるはずだ。

 そんな私がいちばん納得するのは、多分自給自足の生活なのだろう。現実的ではないのが悲しいけれど。

 

 あと、仕事は自己実現というのがあったとして、それは誰かが編み出した体のいいゲーム設定だと思う。元々目標を決めるのが苦手なのだが、仕事における目標を考えるのがしんどい。私は私で問題意識を持ち、自分の課題を設定し、それをクリアしていくのが楽しいというのに、上司にああだこうだ言われるのはうんざりするところがある。それは、あなたが(会社が)私にさせたいことでしょう? と思う。

 

 働くこと、私は楽しいと思っている。好きなことではないがやることがないよりましだと思う。

 

 何はともあれ、自分にとって仕事とは何であるかを見つめ、考えるべきだ。『働くことの哲学』の最後に一文はこんな風に締められ、私も同意するものである。さて、これから色々本を読まなければ。

千葉雅也『現代思想入門』

 千葉雅也『現代思想入門』を読みました。

現代思想入門 (講談社現代新書)

 

 前々から思っていたことがある。いわゆる「学術書」と呼ばれる本はどうしてこう難しいのだろうかと。読んでて全然わくわくしない。でも「わくわくしない」だなんて、結局私がその本に書かれていることをこれっぽっちも理解できない頭の持ち主だからなのね、と(それはそれで腹が立つが)思っていた。私だったら同じことを書くのでももっと面白く書きたいけどなあ(書けるかは別。お得意の妄想。言うだけなら無料)と思って、学術書は苦手だった。

 が、この『現代思想入門』はとても楽しく読めた。「入門」と名の付く本の中でも、かなりフランクに、読者の目線に立っている本だと思う。筆者もそのあたりは意識されていると思われる。その眼差しは私にとっては好印象。

 ただ、悲しいことに、最近自覚するようになったけれど(自覚するのが遅い)私は読んだ本の内容をすぐに忘れる。すぐにだ。ということで、この本の感想を書こうと思い立ち、いわゆる学術書はお堅くて読めないけど(とはいえ読むこともある)この本は読めた! という切り口で書き出せるぞ! と思ったところで、肝心の本の中身がさっぱり出てこない。悲しい。忘れたならもう一度読み直せばいいのだが、こう、空で本の内容を引っ張り出せないのは、つまり何もわかっていないことなのではないか? と、どうも悲しくなるのだ。

 細かいところはさておき、この本で取り上げられているデリダとかフーコーとか、あと誰だっけ、ああそうだ、ドゥルーズの思想にしっくり来た感覚は残っている。そもそも構造主義に関して「なるほどな、そうだよな」と思うこと多しだから、そこを軸とした考え方に違和を覚えないのも宜なるかな。特に「エクリチュール」は現代においてもどんどん深堀したい考え方なので、ちゃんとデリダ入門は読もうと思った。

 入門というのはハブ空港みたいなものだと思っていて、次の空港に行きたいなと読者に思わせることができれば本として大成功だと思っている。だからこの『現代思想入門』はその役割をきちんと発揮しているのだろう。

坂口恭平『cook』感想(再読)

 坂口恭平『cook』を読みました。

cook

 

dorian91.hateblo.jp

 

 再読です。料理を作っている合間に読みました。楽しかったです。

 cookという料理本はまず装丁が可愛い。所有欲が満たされる装丁です。レシピも載っているけれど、レシピ本というより料理の実践本です。こういうの好き。写真付きです。

 作中に書かれているけれど、

  1. 翌日のメニューを考える
  2. 実践する
  3. 写真を撮る
  4. ノートに貼る(1に戻る)

 この流れがいいなと思って、新しいレシピに挑戦する際は写真を撮って印刷してノートに貼ってみることにしました。続くかな。フィールドワークのノートならぬ、料理のワークノートを作るということ。手を動かすことの大切さ。私はレシピの存在意義がいまいちわからず(料理は調味料の量や手順をきちんと守ることが完成の一歩だというのは認識しているけど、決められたルートに乗るのが嫌すぎるのだ)だからレシピ本を作るというよりは実践ノートをつけるという感覚だと捗りそうな予感です。

 精神的に落ち込むことが多いと感じる人にも読んでほしい本で、手を動かすというアイデアは私もかなり参考にしています。悲しいと考えているより料理を作った方がずっといい。同じようなことを昔考えていたことを思い出しました。

アガサ・クリスティー『象は忘れない』感想

 アガサ・クリスティーの『象は忘れない』を読みました。

象は忘れない (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 面白かったんだが!?!?

(以降ネタバレあります)

 

 

 

 

 

 

 『象は忘れない』が面白いだなんて、結局私はメロドラマが好きなのかしら、と思わなくもないけれど、え~、これはめちゃめちゃ愛の物語じゃーんと、きゃーきゃーしてしまうのだから仕方がない。とはいえ、この物語は愛の物語であり悲劇なのだから「きゃーきゃー」はどうなのかと思うが。

 この話は「過去になにがあったのか」という未解決の謎を解決しようとする話でして、作中にも登場するように『五匹の子豚』を似ています。異なるのは、五匹の子豚(=真犯人?かもしれない事件の関係者)ではなく、もっと遠い「象」の話をとにかく聞かなければならないという点。つまり、話自体、語り手の主観が濃く正しいとも言えるし正しくないとも言える情報から真実を見つけてこなければならないという点。がちゃがちゃしています。ポアロもミセズ・オリヴァも色々な人に話を聞きに行きます。

 

dorian91.hateblo.jp

 

 ポアロは未来ある若者たちに優しいなと思います。そこがポアロの魅力の一つかと。一卵性双生児のモリ―とドリーとレイブンズクロフト将軍が「本当は」どう思っていたか、生きている人たちは知ることは永遠に知ることはできないよな…つまりポアロや当時の家庭教師の人たちが語る真相が限りなく真相に近い真相であることは間違いないけれど、本当に亡くなった人たちがどんなことを思っていたかなんて知ることはできないし、いや、それって死んでしまった人に限らず、相対する目の前の生者も同様なのだなと思います。人が本当に考えていることなんて、自分含めてわからないものですよ。

千葉雅也『オーバーヒート』感想

 千葉雅也『オーバーヒート』を読みました。

オーバーヒート

 面白かったです。何が面白かったのか言語化できない面白さに駆られてページをめくっていました。

 物語の中で芯として通っているのが「言葉」というもの。主人公はどうも言葉が堰き止められているような感覚を抱いています。本が書けない。気に入らない相手に言葉をぶつけられない(社会学者とか行きつけのバーの客とか)。恋人との関係もどことなく靄がかかっている。

 前作『デッドライン』に続いて、タイトルがいいのだろうなあ、という気がしていて、タイトルは着物における帯のような作用をしている、とこの本とタイトルについては感じました。タイトルをどう扱うかというのは作家性に委ねられるとは思うけど…。

 オーバーヒートとは、車に慣れていないとわかりづらかったけれど「エンジン本体が熱くなりすぎた状態」のことを言うらしい。なるほど、言葉というガソリンが身体の中で封じ込められ発散することもできず熱を持ってしまった…ということであれば合点がいきます。言葉はそもそもお互いが了解していないと機能しないものなんだなということに派生して気づかされます。言葉の共通理解の領域が狭くなっちゃうと面白くなくなるのだな。

 そこに加えて、言葉と対比して肉体があります。私は湿っぽい性愛が苦手なのかもしれないなあ、という気づきは今後の考察材料として残しておきます。この小説の描写も、頑張って読んだのですが(苦手ではあるからね)なんとか読めたし読後感は悪くないか。嫌悪感は抱かないな。それは描かれているのが女の体ではないからか、描き方の問題か。個人的に「湿っぽくない」というのが重要かもしれないです。

 近年、恋愛指向と性的指向というのは分けて考えますよ、という考え方がメジャーになりつつあると思っていて、現時点の私は「そういうものか」という理解をしてます。むしろ恋愛に絡めとられた性愛的な行動の方がよっぽどしんどくない? ということは考えています。まだまだわからないことが多いな。

 狙ったわけではなく並行して同じ著者の『現代思想入門』も読んでいたので、『オーバーヒート』を読みながらフフフと笑うところもあり。結果的に並行して読めて良かったなと思いました。

江國香織『すいかの匂い』感想

 江國香織『すいかの匂い』を読みました。

すいかの匂い (新潮文庫)

 

 自分にはそういうものがあると認めたくないけれど、実際はあるでしょ? ということを突き付けられているような小説。江國香織作品の中ではつめたく、ちょっと不気味な感じがした。読んでいる最中、ずっとドキドキしていた。目を背けているだけで、自分にもそういうものがあるのだろうか。