8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

天童荒太『悼む人』感想

天童荒太さんの『悼む人』を読みました。

悼む人〈上〉 (文春文庫)

悼む人〈下〉 (文春文庫)

 悼む人

にはあまり共感ができなかったかもしれない。私は薄情なのかも。

静人の考えはわかる。「悼む人」であり続ける経緯もわかる。その通りだと思う。だけど、それでもなお私は人の死に寄り添えない。寄り添おうという気持ちがない。世界は死者ではなく生きる人々のものと思っているのかもしれない。

死に引きずられてはならない。いずれ死ぬのだから、それまでは生を謳歌しなければならない。私はそんなことを考えているのだ。

言葉を選ばずに言うと、静人、お前さん、実の母がその命を燃やし懸命に生き、ついに命が燃え尽きるその瞬間に、あんたが寄り添わなくて誰が寄り添うのだ、と思っている。ちょっと憤っている。他人の死より、あんたが向き合うべき死があるだろう、と。

この物語、最終的に母親の死の間際に静人が間に合ったのか微妙な書き方をしている。私は間に合っていないと思っているのだけれど、もしかしたら、静人は物理的にあの場にいたのかもしれない。

憤っているから、私はこの物語の続きが読みたい。彼は、その後どういう風に生きているのだろう。何を考えているのだろう、と。

静人の行いを否定するつもりはない。別に悪感情を抱いているわけでもない。だけど、実感が沸かないというか、どこまでも表面をさらっと風が凪いでいくような、確かさがない。そりゃあ、小説だからかもしれないけれど。

 

どう死ぬか

普段、秒で寝付ける私がまったく寝付けない夜がたまにある。そんな夜は決まって「死」のことを考えていて、「今眠りに就いて二度と目覚めなかったらどうしよう」とか「死ぬってどういう感覚なのかな、すごく怖い」とか。考えても仕方のない「死」という存在についてずーっと考えてしまい、それがやめられないのである。

『悼む人』では、末期のガンと宣告された静人の母親が登場する。彼女は、病気と闘うための治療から下り、自宅で死を待つことを選んだ。

私が同じ病を宣告された時、果たして彼女のような最期に向けての生き方ができるだろうか、と考えてしまった。そうか、いつかは死ぬんだ。やっぱり、死ぬのは怖い。死にたくない。この世から消えたいなと思うこともあるけれど、やっぱり死にたくはないのだ。というか、死の瞬間が怖いなと。死ぬことが怖いというよりは、死んだら意識がなくなっちゃうのかなーなんてことを考えるのが怖いのだ。

『悼む人』を読みながら、自分が最期の時をどう生きるのか考えていた。最期の時が唐突にぷっつりと訪れるかもしれない。その時まで確かに生きるほかないのだ。

 

死について考える、読書体験でした。

天童荒太さんの『悼む人』を読み終わりました。