穂村弘さんの『野良猫を尊敬した日』を読みました。
上手く人と話せないなとは思っていた。それがどうしてなのか、よくわからなかった。私の内には、外に発散することができない、誰とも分かち合えない言葉が渦巻いていた。
自分が特別だと思いたい気持ちと、自分は特別ではない凡人だという気持ちと。色々とよくわからなくなった思春期を経て、私は成人してから穂村さんの文章と出会う。
ここには世界との溝がそのまま描かれていた。本当にそのままで、しかも面白い。
世界との溝があったとき、どのような行動をとるかは人それぞれだと思うけれど、穂村さんの文章は世界を呪っていないのが良かった。他人を憎まない。
自分は世界と上手く折り合えていない。ただそれだけをユーモアを交えて書いている。「ユーモアを交えて」というのは作為的だから少し違う表現かもしれない。交えてすらいない。ユーモアが自然と滲み出ているような文章。そういう穂村さんの文章が、私は大好きだ。
ということで、穂村さんのエッセイです。
相変わらず面白いのと、穂村さんが見る風景だ。他者がなんてことなく通り過ぎる風景を穂村さんは逃さない。でも誰かが通り過ぎたことがある風景だから、読むとあの頃を思い出して懐かしい。
一番好きな話は「静かな幸福」。インターネットに書き込みをした友人の文章から広がる話。この友人の文章もまた素敵なもので
もういろんな望みは平べったくなってしまっていい。
という言葉の破壊力よ。そうなのだ。よくわかる。私もそう思う。なんてことないことで訪れる静かな幸福の瞬間。それがあれば実は素晴らしいことで、他にさらにどんな幸福を望むのか?そういう感じを得る。穂村さんはこの文章を受けてこんなことを思う。
この気持ちを壊さないように生きてゆきたい、と思った。
穂村さんは友人の文章をお守りに、忘れそうになったら読み返す、と書く。私も、この友人さんの文章と穂村さんのエッセイをお守りにして生きていきたい。
世界とのズレ。多分それって誰しも少なからずあると思うのだ。けれどそれが見えなかったり殊更言葉に取り上げることではないと思うだけのことではないか。
私が本を読んだりインターネットをすることでとても良かったことは、現実世界では誰にも共有できなかった言葉が、世の中で生きている人誰かの胸の内にもあるということがわかったことだ。つまり、私が思っていることは私だけのものではない。似たようなことで苦しんでいたり悩んでいたり立ち止まったりする人が、世界中のどこかには必ずいる。自分とまるっきり同じ人間はいないわけで、考えがまったく一致する人はいないけれど、私は一人じゃない。そう思えたことだ。
だから、世界とのズレをどこかに書き留めておくことは、私は大切なことだと思っている。穂村さんは意識しているかどうかはさておき、しっかり書いてくれる人なので「ああ私だけではないのだ」と救われる人もいるのではないだろうか。
世界とのズレを保存するためには、耳を澄ませなければいけない。感覚を鋭敏にし忘れないように自分の中に留めておくことが必要だ。私も地道にズレを保存していきたい。誰かのためになるってのもそうだけれど、後で読み返すと懐かしかったり面白かったりして楽しいから。
穂村さんのエッセイは、定期的に読み直したいな。
ということで、穂村弘さんの『野良猫を尊敬した日』を読みました。