8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

江國香織『赤い長靴』感想

 江國香織さんの『赤い長靴』を読みました。

 

赤い長靴

赤い長靴

 

 

一体何が。耐えられない!

 と思ったのでした。読みながら私の頭の中には「何が!耐えられない!」という言葉がぐるぐる回っていました。何、この小説、全然わからない。私にはわからない。何故日和子は逍造にこのようなことを許しているのか、また逍造は何故許されると思っているのか、私には理解ができません。「このようなこと」。それがこの小説の肝です。この二人、全然会話が噛み合っていません。成立していません。まったくもって、驚くことに。むしろ読者の方が二人の会話を聞いて(というか読んで)胃がキリキリするのではないでしょうか(少なくとも私は胃がキリキリした)。

 でも、です。会話が噛み合っていない、という点で言えば、きっと私たちの日常の会話だって似たり寄ったりだと思うのです。会話をテープレコーダーにでも録音してそれをあとで文字起こしすればはっきりします。キャッチボールみたいな会話をするのは忍耐がいるのです。私たちは言葉を包んでいる(あるいは言葉がくるまれている)雰囲気みたいなものも十分に使って会話をしていると思っているので。

 江國作品というのはこの本に限らず「結婚」というものを読者に突き付けています。私は想像するしかありませんが、結婚というのはいささか過大評価されているというか、過度な期待を抱かれていやしないか、と思っています。二人が一緒に暮らすこと。それは社会的な制度に則れば「結婚」と呼ぶだけであり、「結婚」したからこのようにあるべき、なんてことはないはずです。先ほど「「結婚」というものを読者に突き付けています」と書きましたが、それは一部分であり、突き詰めて言えば「他者が一緒に暮らすこと」「他者とのコミュニケーション」について江國作品はずっと問題にしてきた、というか私は江國作品を読んでその問題をどうしても意識してしまいます。私が「耐えられない!」と叫んだのは、別に理解されなくったっていいですよ、それ以前に日和子と逍造のやりとりは、一方通行でしかないからです。本来なら「聞いてほしい」と相手への鬱憤を募らせると思うのですが…。そう「聞いてほしい」のです。普通は。普通は?何故聞いてほしいのでしょう。何故「私は」聞いてほしいと思ってしまうのでしょう。

 なんとなく、私だったら「確認したい」からかなと思います。作中でも日和子さんはテニス教室に通い始めますが、相手がどういうコースに球を打ってくるのか、考えながらまた相手が取れない場所に球を打つのがテニスというもので、ひたすらサーブを打っても仕方がないじゃないですか。ああ、そういう意味では日和子はテニスを、逍造がゴルフをしていたのはなんだか象徴的だなと思いました。自分が喋っているということを、それが相手に響いているということを、私は確認したいと思うけれど…。もちろん日和子さんだってそう思う節があって幾度となく「聞いている?」と逍造に尋ねるわけですし…。

 と、色々と考えてしまう作品でした。二人、似たもの同士であるのだとは思いますし、結局はお互い一緒に暮らしている方が色々と都合が良いし、一緒に暮らすなら似たものである方が都合がいいのかな、と思いました。難しいです、この小説。