8月2日の書庫

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小野不由美『華胥の幽夢』感想

 小野不由美先生の『華胥の幽夢』を読みました。

 

華胥の幽夢 (かしょのゆめ) 十二国記 7 (新潮文庫)
 

 

 読み直しです。やっぱりいいもんだ…。短編集なのにどれも読みごたえ抜群であり、本編の世界への入り口としての機能も果たしているので、ここから果たして何を読み直そうかなと思案しているところです。『白銀の墟 玄の月』に進もうかと思っていますが。しかし「書簡」を読めば『月の影~』を、「乗月」を読めば『風の万里~』を読み直したくなります。が、ここは堪えて「冬栄」からの『白銀の墟 玄の月』を選択。

 

冬栄

 戴国の話。泰麒が幼い頃の話です。人々は困窮しているにもかかわらず無力である自分を責める泰麒の姿は、そのまま自分を顧みず戴国の民を救おうとする『白銀の墟 玄の月』につながってきます。今回十二国記シリーズをまとめて読み直そうと考えているのですが、その目的として「人物描写を追いかける」というのを意識しようと思っています。『白銀の墟 玄の月』では超重要人物である阿選はここでは「驍宗と双璧を為す優れた武将であり、しかし驍宗から感じる恐ろしさは感じない話しやすい人物」というのが泰麒の印象です。ふむふむ。そうしてシリーズ全体で散りばめられた個人の印象を束ねて何が見えてくるのか、それを整理してみたいです。見る人によって印象は微妙に異なるのでそこら辺を楽しみたいと考えてます。まあ、読みながら「阿選、てめーコノヤロー」とか思ってたんですけど、阿選という人物がここまで大きくなるとは、最初に『華胥の幽夢』を読んだときは思いもしなかったです。それもまた面白いです。

 廉王と泰麒の会話がやはり重要になってくるお話ですが、私はそれより戴と漣という国のギャップが気になるところです。北に位置する戴と南に位置する漣では同じ時期でも気候がまったく異なり、人々の暮らしや気質でさえ影響している模様。戴国の冬はとても厳しく、天候の乱れはそのまま民の死につながるほど。一方の漣は戴がめちゃめちゃ寒い時期でも農業ができるしいいなぁ…というのを泰麒も少しは感じていると思うのです。しかし漣にも漣の問題があると思いますし、どの国が暮らしやすいかというのは相対的なものでしかない、しかも一部の性質だけを取り出して比較するのは意味がないことだろう、ということを考えていました。生まれてくるところを選ぶことはできない、ということの残酷さを感じる一場面でした。

 

乗月

 良かったです。一番読み直して印象が変わった話かもしれません。月渓と青辛の問答は言ってみれば地味な印象を抱いていたのですが、やりとりする中で月渓の考え方が変わっていき、終盤の「月陰の朝ではないですか?」のくだりでパッと夜空に神々しく輝く月の描写。これを頭でイメージとして想像したときに読者の感情はクライマックス、そして、月渓の考え方も一新されるという、構成がいいもんだなーと思ったのでした。

 月渓は先王仲韃を崇拝しその延長に民の安寧がある良い家臣であるので峯王足りえないのかなと思うのですが、自らの期待を裏切り続けた仲韃で固まった心が、その娘祥瓊の変貌と勇気でもって融かされ、彼を次の一歩に進ませたのでした。このじわじわズドーン感がすごいです(語彙力)。

 

書簡

 雁国の大学で勉強中の楽俊と女王になって間もない陽子とのやり取り。短い話ではありますが、文と文の合間から語られぬ言葉を探し相手を思いやる優しさとすべてを語り切らずとりあえず頑張ってみようという気丈さが身に沁みる話です。楽俊の絶妙なバランス感覚が本当に尊敬の域にあるものだと思います。ただ頭がいいわけでもないし、善良なわけでもなく、嫌なことや理不尽を前にしたときの考え方や立ち振る舞い、決して暗い場所に落ちないところがすごい。

 

華胥

 この話は好きな話ではあるのだけど、いっつもモヤモヤしています。それは朱夏たちのやりとりが「どこか暢気だ」と思うからではないかと分析していて、国や民のリアルな姿がどうしても見えてこない、天上でのやりとりだからではないかと思います。どこか御伽噺のような印象ってのもそういうところから生まれているのではないかと。

 私はこの話からだいぶ影響を受けていて、慎思の「非難することは嫌いです」や「責難は成事にあらず」というのは考え方としてよくわかります。が、それは「何もしない」と結びつきやすいことのようにも思えるので、同じく慎思の「考え続けること」という言葉を意識しながらやっていきたいものだな、と思っています。

 気になるのは、慎思はのちの采王黄姑となる人なのですが、それならば砥尚ではなく慎思を王にすればいいじゃん…というのは、その扶王末期の動乱を突破するには砥尚が一番王にふさわしいということであり、砥尚にも王になる資格や能力はあって問題はその運用の仕方だったのだろうな…と思うことにします。また砥尚の件を踏まえて慎思などが決意新たにした(国を守らねば!)ということが、王として選ばれる理由になったのかな。にしても、精神的に追い詰められていた采麟がその後どのようないきさつで持ち直せたのか、気になるところであります。

 

帰山

 長きにわたり国を維持してきた宗王の次男坊である利広の話。『図南の翼』でも情に流されやすいタイプではないという印象だった利広、数多の国々を飛び回り冷静に動向を観察している彼が家族の情で評価の手をを緩めることはしなさそうなので「奏という国が終わる未来が見えない=宗王が道を踏み外すとは思えない」というのは本当にその通りなんだろうなと思うのですが、だからこそそういう奏の国が亡ぶ姿を見てみたい、と多くの読者は思うのではないかしら。私は見てみたいです。すみません。

 利広が一瞬感じるしんどさの描写が本当に奏の国にしかわからないなのですが、多分そのしんどさってのは程度の差こそあれ一家全員が共有できることじゃないかなと思います。奏のすごさってのは寿命を遥かに超える歳月を生きてきた中で一家全員が精神を健全に保ちお互いの関係を維持できたことで、それは一家で誰一人欠けることがなかったからこそのものではないか、と卵が先か鶏が先か論法のようなものを考えています。奏国強い。

 

 ということで、楽しく読むことができました。あとで自分なりに用語や設定をまとめておこうと思います。本当に十二国の世界は、読んでも読んでも把握しきれない広大な世界です。