8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

多和田葉子『百年の散歩』感想

 多和田葉子さんの『百年の散歩』を読みました。

百年の散歩 (新潮文庫)

百年の散歩 (新潮文庫)

 

 

 面白かったけれど読み通すのに難儀した…しかしこれは読まねばなるまい!と思わせる質量がある、気がする。ベルリンを散歩する私が何を思うか、その思索を永遠と追う短編集であります。

 多和田さんは『星に仄めかされて』を読んで興味を抱き、ふらふらと読んでみたいななぁと思っている作家さん。どちらにも共通しているのが、異国の地で母語を使って思考すること、そもそも母語とは何か、異国とは何かという問い、言葉に対する好奇心だと思っていますが、特に「変換の妙」みたいなものが読者として読んでいると楽しいです。

 

 (言語学を学んでいるわけではないので、私の頭の中のイメージで語ります)

 日本語というのは、大きく分けて「漢字」「ひらがな」「カタカナ」という文字を使って読み書きしている言語です(多分)。

 例えば「こうげん」という言葉があるとします。「こうげん」だけでは意味が絞り切れません。ひらがなは表意文字ではないです。表音文字の中の音節文字らしい。「こうげん」が何なのか特定するには、「こうげん」が文脈の中でどこに位置付けられるか、前後関係から推察したり、漢字にすればわかります。公言、高原、光源、抗原。

 多和田さんの小説では所々で「変換ミス」みたいな小さなエラーが出てきます。エラーというのは不適切な表現で、多分それは異国の言葉→母語への変換の過程を見せてもらっている感じ。多和田さんが描く世界は文字よりも音の情報が先に来たり、重たくなっている気がします。私は外国に行ったことがないので同じ感覚を抱くのかはわかりませんが、視覚より聴覚の方が先に反応するんじゃないかな…。文字を読むより音としての情報の方が先に来るしひっきりなしに来るイメージ。なので小説ではこのような表現になるのではないかと思っています。全然わかりませんが。

 私は言葉の変換について考えてしまいましたが、この本は散歩の本でもあります。その点に着目して、またどこかで読み直せたらいいなと思っています。今度はゆっくりじっくり丁寧に。