8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

平野啓一郎『マチネの終わりに』感想

 平野啓一郎『マチネの終わり』を読みました。

マチネの終わりに(文庫版) (コルク)

 

 ネタバレになると思いますので読もうと思っている人は注意ください。

 

 

 

 私は元来、勘違いや誤解をベースとした物語が苦手です。コントなどお笑いのネタでもあることですし、ドラマやアニメなど創作にも登場すると思いますが、勘違いや誤解でずれてしまった、脇に逸れてしまったものを「傍流」と呼ぶならば、本筋(「本流」)が例え残酷なストーリーだとしても、本流であるべきだ、と思ってしまう。この「べきである」と強く思ってしまう心の働きには何があるのだろうと自分でも不思議ですが、誤解・勘違いによってみるみるうちに傍流を流れていってしまう様子に私は耐えられなくなるのです。

 『マチネの終わりに』はとある誤解から、蒔野聡史と小峰洋子それぞれの人生の線が離れていってしまう物語でした。読んでいってつらかった。それはこの二人に心を寄せていたからではなく、ただ二人の人間の人生が「そうあるべき」というものから逸れていくことの痛みからでした。私は神様なのでしょうか。

 考えてみれば「そうあるべき」というのは誰が決めたのでしょう。そういう「正解」みたいなものがあるのでしょうか。私は無いと思っています。なのに、蒔野聡史と小峰洋子は運命の二人だったと思わざるを得ない。この矛盾をどうすればいいのでしょう。

 なかなか難しい話でした。難しいことを話していると思ったけれど、「過去は未来のある時点の解釈でいくらでも変容する」というような話はよくわかると感じました。

 本というのは読む人によって解釈が様々ですが、この本は話題にもなったし比較的多くの人に読まれている作品ではないかと思います。そしてこの本を読んだ名も顔も知らぬ他者をふうわりと頭の中で思い浮かべたとき、おそらく読書の感想は私と違うものになるでしょう(当たり前のことですが)。その当たり前の事実を深々と考えてしまうのでした。他の人はこの話をどう読んだのでしょう。何を感じたのでしょう。私は「潔白」な話だなと感じましたが、あなたはいかが。

(実写化されているのは知ってましたが、蒔野=福山雅治、小峰=石田ゆり子と知った時は、「あーね!」と膝を打ちました)