8月2日の書庫

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春日武彦, 穂村弘, ニコ・ニコルソン『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』感想

 春日武彦, 穂村弘, ニコ・ニコルソン『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』を読みました。

ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと

 

 医者・作家の春日さんと歌人の穂村さんの死をめぐる対談集。そして挿絵として漫画やイラストをニコルソンさんが担当している。絵が可愛い。お二方(春日、穂村)とも眼鏡。

 さて、感想といっても、内容を何も覚えていない。これは完全に私側の問題で、どうも対談というのが読めない人間らしい。一体なぜなのだろう。スマホアプリゲームのストーリーのテキストも読むのが得意ではないあたり、何だろうな、会話、会話、会話、会話のやりとりを読むのが苦手なのかもしれない。ということで、ぱらぱらとめくりながら気になった言葉を拾いつつ、私も「死」についてだらだら書くことで感想にしてしまおうと思う。

 死。少し考えて思い出したのは、新型コロナウイルスのワクチンの副反応でしんどかったこと。ここ5年くらいは高熱が出てしんどいという思いをしたことがなく、体が痛すぎてろくに眠れないという状態で真面目に実感として死ぬことを意識した出来事だったように思う。体が痛い、熱が出ているという状態だけならそこまで不安に思わなかったかもしれないが、新型コロナウイルスの流行で世相は混乱、まだまだわからないことだらけというのが精神的に負担だったのだと思う(それにワクチンをめぐっては色々神経質にならざるを得ないこともあった)。今眠りに落ちたら二度と目を覚まさないことがあるかもしれない、と本気で思った。でも、いつの間にか寝ていた。朝、自分があの夜を乗り越えられたのだとわかったとき、良かったー、と少しばかり感動したのを覚えている。

 その経験から思ったのは、私ぐらいの年齢であれば、まだまだ死ぬことに対して準備ができていないということ。今死ぬ運命だとしても、それは仕方ないと思いつつも「いやー、ちょっと早すぎないか」「まだ心の用意ができてないのだが」と困惑すると思う。

 対談の中でも「死について考えるのは、瞬間的なことではなく、そこに至る過程を考えるということ」みたいな話が展開されていて、その通りだなと思うけれども、過程すら私は考えられていないような気がする。そもそも生きている人間が、平生から死を意識することはできるのだろうか(できたのだろうか)。昔の人は今より死が生活の常に隣にあったのだとすれば、この私がとりあえず直近で食うものも寝る場所も困らず健康で殺される危険性がない環境にあるからだろうか。そんな気もする。多分、そうだろう。世界のどこかでは今も紛争が起こっていて、死を隣り合わせの生活を送っている人たちがいるのだ。この対談集が世に生み出されているということは、その社会がある程度平和であることを意味しているってことだ。死について考えられるということは、とても贅沢なことだ。

 私はいつか死ぬ。今日かもしれないし明日かもしれない。5年後かもしれないし10年後、50年後かもしれない。いつ死ぬか、どのように死ぬのか考えるのは私にとってはひどく難しく、対談でも言われていた通り、裏返しにして、「どのように生きるのか」という問いで考えていければいいと思っている。今死んだところで、惜しいことは尽きないが、それでも自分なりに懸命に生きているということで精いっぱいで、それでいいじゃないか、と思いたい。思わないとやっていけない、というのが正直なところかもしれない。