宮下奈都さんの『羊と鋼の森』を読みました。
宮下さんの話はいつも一定以上の静けさを保っていて、私は好きです。霧が立ち込める森の植物の、水分をたっぷり含んでいるような感じ。
夢中で読んでしまって、実はちゃんと読めていません。もう少しゆっくり読むべきでした。この文章を書き終わったら、2週目に入りたいと思います。
感想としては、夢中になりたいなぁ…ということでしょうか。
主人公の外村は高校時代に出会ったピアノに魅せられ調律師を目指すようになります。そうせざるを得なかったのです。身の回りに圧倒的才能を持つ人たちがいて、自分にはそこまでの才能が無いことを知りつつ、しかしピアノから逃れることはできない。
私には外村のピアノのような存在がありません。だから、外村が羨ましいです。私には目標とするべきものもないし、あったとしてもそこに身を投じる度胸なんてあるのかな。そして、羨ましいのと同時に外村の苦しみを本当に理解することもできないのです。
作中、何度も何度も彼は己の技術不足について悶々と悩みます。自分には何かが足りないのはわかっている。でもそれをどう埋めたらいいのかわからない。近くには見事な調律師がいる。自分はその人のようにはなれない。苦しい。わからない。もどかしい。
私にはわかりません。わかるように、なりたいです。
また、印象的だったのは外村の感受性が豊かなことです。彼の描く心象風景はすごく綺麗だった。そして誰かとそれらを共有することもなかった。それでよかった。
私は自分の感受性が豊かだとは思っていないけれど、どうだろうか、自分の見えている風景・感じたことを誰かに理解してほしい、という気持ちが少なからずある。けれど、「理解してほしい」なんて無理に思う必要もなくて、そのままでいいのではないかと思うのです。「感受性が豊か」というけれど、人それぞれ目の前の現実に対して何を感じるかは様々で、それらに優劣はないし、殊更主張することでもないのかなと。
外村の見る風景は綺麗だ。そして綺麗なままそこにある。彼が話したいと思えば、彼の口が開き、思わなければ誰かに知られることはない景色。それで良かったのだ。
また読み直します。
今はこれぐらいしか言えません。私も森を歩きたい。ただ。ひたすらに。
宮下奈都さんの『羊と鋼の森』を読み終わりました。