イーユン・リー『自然のものはただ育つ』感想
イーユン・リーの『自然のものはただ育つ』を読みました。
何も言えないという感想に逃げたくなるが、率直に慎重に何かを語ることができるだろうか。
作者はすごい人だなと思った。憧れる。理性的で、目の前の事象を理解しようと努める。勇気と問い。正直さ。
惹かれたのは、秩序というかルーティーンというか、庭いじりとかピアノとか泳ぐといった行為を淡々と行おうとする意志。私は「スイマー」なので泳いでいる作家は総じて好きになりたくなる。村上春樹と江國香織の小説は泳ぐ人がまあまあ登場する。
息子二人を亡くしたの。二人とも自死だったの。この簡潔な説明で、人はあまりに様々なことを想像しすぎる。しかしその想像はどれも作者の抱えるあらゆるものにかすりもしない気がする。このギャップについて私は考えてしまう。
今ね、個人的に好きな本を読んでいるの。その本はね、うーんと。
そして簡潔に相手に説明したとしよう。相手は自由に感想を述べるだろう。その感想どれもが、この本で語られていることに結びつかない。
だからこんな感想なんで読んでないで、さっさと皆さん読んでください、と言うことで私は逃げる。
愛情って不思議。
今回のケースに限らず、私は「仕方がなかったんだね」と言ってしまいそう。でもそう言うのはいけないことなのかもしれない、そう言ってしまう自分は変わらないといけないのかもしれない、そんなことを読みながら考えていた。仕方がなくないよね。だって。一般的にそれらのことって仕方がないことじゃないよね。そういう言葉で片づけちゃいけないことだってのはわかる。でも私は「仕方がないよね」と言ってしまいそう。このギャップ。
わからないんだったら、せめてわからないことに思い寄せる人でありたい。想像することをやめないでいたい。
町田康『しらふで生きる』感想
町田康『しらふで生きる』を読みました。
面白すぎてびっくりしちゃった。町田さんの本はそういやまだ読んでなかったけど、古事記が控えているからそれはまた楽しむとして、独特の軽妙な文体が個性。三十年来の酒飲みだった筆者が突如断酒に至った経緯やその後についての文章。
酒は飲めるが飲まない人間の私は、断酒の苦しみも酒を飲む楽しみもわからないといえばわからないので、へええ、そんな感じなんですねという他人事で読んでいたけれども、酒飲みの人あるいは酒を絶った人はまったく異なる味わいになるのでしょう。
タイトルが効いている。酒を飲む自分は正気、酒を断とうとする自分が狂気。そんなくだりに笑ってしまった。何が正気で何が狂気なのだろう。
酒を軸に、己とは幸せとはという内省も面白かった。
私は、お酒というモノは好きなんだけど、お酒を飲んでいる自分は自分の中でもパフォーマンス低いなあ、と思ってしまう。そのような状態に意図的に追い込むという意味でなら酒を飲むことは全然好きだけど、これを毎日はきついなあ、って感じ。だから、酒を飲むことで幸せになりたいとか思ったことなく、人にはいろいろな酒観があるのだなあと思いました。
ジュリー・オオツカ『スイマーズ』感想
ジュリー・オオツカ『スイマーズ』を読みました。
訳は、小竹由美子さん。
私もまた「スイマー」なので、この本は読まねばならないと思って手にとった。新潮クレストブックスが好きだ。
ところが、私の意図しない方向に物語は進んでいく。この物語は、プールと認知症の物語なのだ。
少し前に、江國香織の『川のある街』を読んだ。ここでもまた、認知症と思しき病(と本人は認めないが)を患う女性の視点で進む話を読んだ。立て続けに認知症、認知症だ。この病を患う本人が書いた物語があるだろうか。つまり、認知症という病は、本人の目線でどれだけ語られているのだろうか。わからない。恐ろしいとか恐ろしくないではなく、なかなか本人目線で寄り添うのが難しい病だと感じる。私たちの生きる社会は、思っている以上に制約が、規律が、マナーが、そこかしこに存在して、認知症を患う人はその網目にどうしても引っかかる。このもどかしさというか、人間というのはどうあればいいのでしょうね、ということを考えざるを得ない。
話は変わるが、私はスイマーではあるが泳ぐことをこの上なく愛する人間ではない。その点、この物語に登場する人はとても情熱的で、その熱量に圧倒された。泳ぐことってそんなに高尚なことではないと思うけれど。ジョギングやバスケや卓球やサッカーや野球や、その他多くの趣味といえるものは等しく豊かなものだと思いたい。
東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』を読んでいる
東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』を読んでいます。
序盤も序盤、馬とジョッキーのくだりを読んでいるところだ。
人の心を、馬とジョッキーに二分して考えてみよう、という話だ。これは私自身思い当たるところがあって、なるほど、馬とジョッキーね、と単語を与えてもらって分かりやすくなった。
確か、ASD(自閉スペクトラム症)の人の語りの中でのたとえだったと思う。自分の中にもう一人の自分がいて、そいつが眠いと言ったら眠らなければならないし、やりたくないと言ったらできないのだ、と。もう一人の自分の言うことに抗うことはできるけれども、それはひどく疲れることなのだ、と。
なるほど。
当時、そのたとえはすごく面白いなと思って視聴していた気がする。
私は、と言うと、はっきりと、そして強固な「もう一人の自分」というのはいないのだが、相方の機嫌をきちんと窺っていないと、ある日突然ぷつんと駄目になるっぽい、ということに気づく。内なる自分を上手く誘導していく。内なる自分になるべく逆らわない形で、しかし、普段表に出ている私の言い分も通す。それを人は、工夫と呼ぶのかもしれない。以来、少しずつではあるが、私は内なる私を上手くおだてながら生活している。もう一人の私を馬、表の私をジョッキーと捉えるのは、あながち間違った当てはめ方ではないと思う。が、まだまだ序盤なので今後の内容を注視していこう。
私が読んだところまでの話で言うと、馬とジョッキー、それぞれ極端に偏るべきではないにもかかわらず、何故かジョッキーの方を重く捉えてしまうようである、人というのは、ということらしい。野性的、本能的な「馬」を、人は理性で抑圧しすぎるという話? 違うかも。今後の展開に注目したい。
高田大介『記憶の対位法』を読んでいる
高田大介『記憶の対位法』を読んでいます。
読み終わった本を書く、にすると、書きたくない本にぶち当たったときデッドロックみたいな状態に陥るので、読んでいる本も挙げていく。
初版が4月30日で、6月30日の時点で六分の一ぐらいしか読んでないから驚くべき進捗率であると言えるだろう。それはこの本か読むに値しない本でも(そういう本がそもそもあるのかはわからないが)、つまらないからでもない。私がこの本を買ったから、ただそれに尽き、私は図書館で借りた本を優先して読まなければならない。だからこの本は少しずつ少しずつ大切に読んでいる。
高田作品に通じる濃密な内容は、いかの塩辛をちびちび舐めている感覚に近い。少しずつ少しずつ、味わって読む。
偏見や差別は容易く流布するが、それを訂正する言葉に耳を貸す者は少ない。それでも正しい情報を提示し続ける必要がある。昨今の時代の象徴的な出来事。
私は、その物事の、限りなく本当のことを知りたいと思う。私にとって心地よい事実ではなく。人は自分の思いたいことを思い、感じたいことを感じ、見たいものを見ているのだと思うけれど、それの何が悪いのかと考えたとき、行く果ては人を傷つけるしかない、殺伐とした時代になるからかもしれない。
主人公の歩みを見ていこう。何かを判断して何かを得るにはまだ足りなすぎる。
村上春樹『午後の最後の芝生』感想
村上春樹『午後の最後の芝生』を読みました。
おおよそ、小説に使うべき表現だと思っていないけれども、率直に「完成度たけー」と思ってしまった、そんな短編小説。
誰かの家の芝生を刈りに行く。派手な出来事は起こらない。芝を刈って差し入れを食べて少し話してそれで、終わり。だけれどもここにこの世の真理が潜んでいるというか、むしろ人生とは、こういう単調で単純で短くてありきたりで、そういうシーンにこそ、蟹味噌みたいな濃いエッセンスみたいなものがあるのではないか、と思うのであった。難しく考えることは無い。少ない要素で、世界は驚くほど広く深いことを提示できる。
桜木紫乃『彼女たち』(写真・中川正子)
桜木紫乃『彼女たち』を読みました。
短い話。文と文がきりっとそれぞれに独立している感じがして(実際は、小説なのできちんと文と文の繋がりがあるのだが)それが心地よいと感じた。中川正子さんの写真も素敵。透明感がすごい。光に溢れている。
どういうきっかけで生まれた話だろうと、私はインターネットの検索で調べてみると、出版社のサイトを見つけた。
そこには、この本を読んだ人の感想が寄せられていた。そのどれもが正しく確かなものであるということを弁えた上で、私の印象とは違うなと思ったことがあったのでそれだけ書いておく。
私はこの本のストーリーなど気にしていなかった、ということ。物語ではあるけれども、そこに意味や教訓、言うなればメッセージを感じ取ってはいないということ。この本に限らず、私はよくそういう読み方をしているようだ、ということ。
確かに、読もうと思えれば(そして作者の意図するところかもしれないが)この本は、生きる人々に向けたエールになる。生きていれば、おそらく未来は明るいという予感がある。それは、尊いメッセージだと思う。しかし私は、その瞬間の言葉の美しさであったり、写真のきらめきのようなものに惹かれたし、それ以外は特に考えなかった気がする。人には人の、読み方があるらしい。
点と点を感じた。そういう本であった。






