8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

恩田陸『ネバーランド』感想

 恩田陸さんの『ネバーランド』を読みました。

ネバーランド (集英社文庫)

 

 昔読んだはずなのだけれど、結末をおぼえられていない。ということで楽しく読むことができました。「ネバーランド」というタイトルもなるほどね、と。

 恩田さんは閉じられた世界を描くのも上手い、というよりも、それがキーワードである作家さんだなと思います。『麦の海に浮かぶ果実』『夜のピクニック』『六番目の小夜子』『球形の季節』。数を挙げればきりがありません。閉じられた世界で生きる人々、その人々の閉じられた世界。世界と、そこで生きる人の心が閉じられている感覚です。その「閉じられている」というのを私は「内向的」「内省的」と捉えているのですがどうなのでしょうね。

 閉じられた空間で、自我が肥大化し他者への憎悪が育まれる一方で、この『ネバーランド』という作品は他者への興味関心、理解に繋がっていくところが素敵だなと思いました。

 

 恩田作品の会話でむしょうに好きになる言葉ってのがひとつやふたつあるけども、『ネバーランド』ならこれだな。ああ、ベーコンエッグが食べたい。

「とっとと食え。俺、ベーコンの脂が皿の上で固まっているのって、この世で絶対許せないもののひとつなんだ」(p.54)

 

江國香織『きらきらひかる』感想(再読)

 江國香織さんの『きらきらひかる』を再読しました。

きらきらひかる (新潮文庫)

 

 突然ですが「あ~~~~『きらきらひかる』読みて~~~~」となりましたので、今度こそは本屋さんで買ってきました。そういう衝動的な読み方、好きです。

 自分が何故「あ~~~(以下略)」となったかは不明です。嫌なことがあったわけでもないですし。ただ、最初の章「水を抱く」という言葉から、以前読んだときに流れる水のようなさっぱりさを感じたのだろうか。そうかもしれません。あとは笑子ちゃんの持つウイスキーのグラスが氷でカラカラと鳴るところも想像したのかもしれません。流れたかった。

 読みました。やっぱり面白い。笑子はアル中、睦月はホモで恋人あり、という説明書きの簡潔な残酷さがより二人の取り巻く環境の厳しさを体現しているような。「ホモ」という言葉は私は使わないな。今も使われるのだろうけれど、昔の使われ方と何か違うところはあるのだろうかとか、そういうことも考えていました。

 笑子はアルコール中毒者、という説明と、作中で書かれる笑子がしっくりこない。それが、私が『きらきらひかる』から受け取った一つの教訓?そういう堅苦しいのは嫌だな、発見?だと思います。つまりラベリングしたところで内実はさまざまだし、そこに人の生き方とか考え方とか、蟹でいうカニみそのような美味しい部分なのではないか?ということです。笑子ちゃんは(笑子ちゃんって呼びたい)お酒が好きで、絵のおじさんに歌を歌ってあげられる人で、紺くんのプレゼントしてくれた木には紅茶をあげてしまうような素敵な人なんですよう。文庫本の裏表紙を見ながら私はそう毒づきます。

 笑子の人生を楽しもうとする姿勢、睦月の優しさ、紺くんの悪ガキさがいつまでもお互いを支えられるように、と願いながら私は本を閉じました。

江國香織『きらきらひかる』感想 - 8月2日の書庫

岸政彦『図書室』感想

 岸政彦さんの『図書室』を読みました。

図書室

 

 まずご自身で撮られたという表紙の河川敷の写真(川面は少し波立っている)と直筆のタイトルと著者名がいいんだわ…。『図書室』なのに河川敷?と思ったけれど、なるほど、これは確かにこの表紙でなければならなかったです。

 『図書室』という小説と、『給水塔』という書下ろしのエッセイ?なのか小説なのか、が収録されています。これは西の文学なんですね。関西弁ってやっぱりいいなぁと思います。これが仮に翻訳されたとき、例えば英語なら関西弁はどのように表現されるのでしょう?そういうことを考えると、いわゆる方言(標準語というものがあったとしても、方言であることに変わりはない?)が文体としてどのように表現されるのかという点は、とても興味深いことです。

 図書室。これが図書館でもなければ、学校の図書室でもない。家と学校とそれ以外。「第三の場所」というところがいいなと思いました。図書館だと人が多すぎる。学校の図書室は学校という閉じられた世界に巻き込まれている場所だからイマイチ。公民館の図書室の「ちょうどよさ」は一体なんなのでしょう。

 読みながら、図書室というのは主人公たちにとっての世界であり、同時にさらに外に広がる世界の交点だったかなと思いました。公民館のひっそりと人気がない図書室のさらに奥にある子ども用コーナーの一点から、世界の終わり、終末へと拡張していく感覚が面白かったです。見えていないからこそ、わからないことがあるからこそ、そこまで拡張できてしまうのかもしれないです。小学生の目に映る限られた世界という点でも、この小説は見事に限定的で独りよがりなところが描かれていたと思います。

アリ・スミス『秋』感想

 アリ・スミスの『秋』を読みました。

秋 (新潮クレスト・ブックス)

 

 めっちゃ良かった…。読んでいて楽しかったし沁みました。

 EU離脱ブレグジットに揺れるイギリスが舞台です。眠り続ける時間が長くなった101歳の老人とその傍らで本を読む女性エリサベス。彼女の今と過去と老人ダニエルの世界が入り乱れながら進んでいく物語です。

 

 人生のことを考える時、断片的か連続的かということを考えます。人生は流れ続けるものであり切れ目がないようで、実際に後から手に取れることは断片的な記憶でしかないのでは?とか。

 『秋』というのは記憶の断片で構成されている話で。その一つひとつがエリサベスにとって大切でかけがえのないものであるのがよくわかるし、どの話も素晴らしいと思います。なんというか、人が誰かについて、何かについて考える時と似ている話という感じ。少なくとも私はそういう部分でこの本に惹かれました。誰かのことを思い出したり、今に戻って目の前にある出来事、町の風景に焦点が合ったり。

 ダニエルとの問答もとてもチャーミングでした。彼女にとってのダニエルって、様々な関係性のラベルでは括れない、ただの「ダニエルさん」なんだろうな…。こういう人物が傍にいたというのは幸運かはどうかさておき、人格形成、ものの考え方を構築する上ではめちゃめちゃ刺激的だったろうなと思います。ダニエルさんみたいな人、私にもいたらいいのに。あるいは、私が誰かにとってのダニエルさんになることはできるのでしょうか。

 翻訳されていない続刊『冬』『春』『夏』が刊行されることを願って。

クセニヤ・メルニク『五月の雪』感想

 クセニヤ・メルニクの『五月の雪』を読みました。

五月の雪 (新潮クレスト・ブックス)

 

 どうもこんにちは「新潮クレスト・ブックスを読もうキャンペーン」からまた一冊本を読みました。誰か大富豪か私に新潮クレスト・ブックス全冊を本棚付きでプレゼントしてはくれないか。本棚に整然と並べられた統一がとれた新潮クレスト・ブックスの背表紙たち。かぁーーーーーーー大金持ちになりたい。嘘です。でも憧れます。

 この本はまず表紙がとってもキュート。ビビットな濃いピンクが効いています。手に取ったとき思わず「可愛い…」と呟いてしまいました。

 内容も面白かった。特に最初の「イタリアの恋愛、バナナの行列」が好きです。どうやったらこんな話が書けるのかなぁ…と唸ってしまいます。

 

 今年はやたらと海外文学を手にしていますが、その理由として、一つは国内作家の本に若干飽きてきたというところ(飽きないほどまだまだ知らない読んだことのない作家さんがいることは重々承知です)。「新鮮に驚きたい」というのが海外文学に手を伸ばす一つのモチベーションになっているようです。なんというか、素直に人間に驚けるんですよね…。あ、人ってこんなにユニークなんだ、ということを思い知るのが海外文学。日本の小説はどうしても知っていることが多くて共有できるものもたくさんある。それら知っていることを色々と混ぜ込みながら読む楽しさがあるけれど、海外文学は土地とか時代とか文化とか知らないことだらけだし、知らないからこそ人間が浮き彫りになる感じ。国内作品は、人間が色々なものを纏っちゃう感じ(人っていうものですよ多分)。説明できているのかなぁ…。とにかく私はそういう理由から、今年は楽しく海外作品を読んでおります。

 メルニク作品は、人間がとてもユーモラスでした。情景とか物の細部の書き込みもすごかったけれど、人がどなたもユーモラス。不安定で生き生きとしていて生半可な気持ちで臨むとばこーーーーんと殴られる。ついていけない…と思いながら読み通すことができましたが、今の私は振り落とされないようにするのが精いっぱいなので、鍛え直します。楽しかったでです。

コーリー・スタンパー『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』感想

 コーリー・スタンパーの『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』を読みました。

ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険

 

 ただただノリで叫ぶなら「最高にエキサイティングした本!」でした。めっちゃ刺激的で面白い本です。この本、歩く人におすすめしたい。いいから読め。

 

 私はどこか勘違いしていたなと思います。私は辞書に書かれている意味がその時代の「ほんとう」だと思っていたのですが、そうではないんです。スタンパーさんが作中で言っていたのが、辞書は言葉が使われているその意味を収録するものであり、辞書が言葉の意味を規定するものではない、ということ。イメージとしては、辞書と社会の間で言葉がぐるぐるとループしているような感じ(あ、これは私の勝手なイメージです)。だから、辞書の意味を絶対的なものとして捉えては駄目だということです。辞書に載っているから正しい、じゃないんです。

 正しい言葉なんて、ない。言葉は言葉。勝手で自由気ままだけど妙に規則正しい、シンプルとは程遠いものなんですね…。「美しい言葉」とかそういう言葉が陳腐に聞こえてしまいます。

 プロフェッショナルには頭が下がる思いです。辞書作りにせよなんにせよ、何かを極めた人の知識は尊いものだなぁと思います。まだまだ自分の知らない世界がある。言葉と格闘する人たちの姿勢を通して、背中がシャキッとさせられました。定期的に読み直さねばなりません。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』

 ガブリエル・ガルシア=マルケスの『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』を読みました。

ガルシア=マルケス「東欧」を行く

 『百年の孤独』という本が、家の近くの本屋にいつも一冊置いてあるのだが(今日訪れたら無くなっていたので、誰かに買われたのか戻されてしまったのか)今年読んだ多和田葉子さんの『百年の散歩』と混同していて、ああ、これは『百年の孤独』だわ、散歩じゃないのよ、というのを毎回その本屋に行くたびに繰り返していた。ちなみに私はまだ『百年の孤独』を読んでいない。読んでいたら混同するはずがない。

 その『百年の孤独』の作者だとはつゆ知らず、私はこの本を読んでいました。文字通り、ガルシア・マルケスさんが30代の前半に東欧をめぐった際のルポルタージュです。

 己の知識不足がもどかしかったです。世界史をもう一度勉強し直さなければなりません。資本主義とは。社会主義とは。マルクスとは。レーニンとは。スターリンとは。何故ベルリンの壁は築かれたのか。そしていつどのように壊されたのか。おぼろげながらの知識ではこの本を存分に味わって読むことはできませんでした。言うなれば、食べるための道具の使い方がおぼつかないようなもの。ああ、己の学識のなさ、これから補っていかねばなりません。

 わからないなりになんとか読み通しましたが、印象的だったのは、情報が統制された状態で生きる人々のこと。マルケスさんが訪れた国は社会主義体制の下、色々と情報が規制されています。マルケスさんが知っていることと、その国の人が知っていることに大幅にズレがある。その状態、果たして嘲笑うことができるのだろうか?ということです。

 井の中の蛙という言葉があるように、閉じられた世界で生きていると、その世界が閉じられていることすら認識できないということがあります。私たちはどうして自分たちが蛙でないと言えるのでしょう。私は蛙なのです。同じ蛙ならば、せめて自分がいる場所は井戸の中であること、その外には広大な世界が広がっているということ、井戸は出ていかねばならないことを知っている蛙でありたいです。そのためにもまずは動くことと、勉強ですね。この点はマルケスさんの行動も印象的です。その国の素の部分を見ようと試みること。国々をめぐること。本物を見ること。私もそうありたいです。