8月2日の書庫

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澤康臣『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』感想

 澤康臣『事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方』を読みました。

事実はどこにあるのか 民主主義を運営するためのニュースの見方 (幻冬舎新書)

 

 筆者はジャーナリストだ。ジャーナリストがジャーナリズムについて書いた本だ。そう書いたはいいけれど、何か含みがあるわけではない。私はこの本を「ふむふむ、なるほど」と感じながら楽しんで読んだ。interestingの楽しさである、勿論。

 

 さて、私には、おそらく言語化していない数多の「嫌いな言葉」というものがあるけども、言語化しているもののうちの二つが「老害」と「マスゴミ」だ。理由は、簡単に言えば「単純化しすぎ」であり、さらに私が嫌悪を抱くのは、この言葉を使用することの危険性からだ。

 たとえば「老害」という言葉は、かなり意味が曖昧だと感じる。若者の躍進を阻害するというか、いつまでも権力の座に座り、若返りができない状況を嘆く意味もあれば、老い、思考が硬直化し、他人が眉を顰めるような醜態を指すこともあるような、気がしている。特に後者のニュアンスに近い使い方をする場合、私たちは「老い」というものをまだまだ対岸の出来事として見ているような気がするのだった。私たちは「老い」というものがどういうことなのか、本当に理解しているのだろうか。様々な機能の低下(ほんとうに?)、心身の変化を加味して私たちはそれを言うのだろうか。いつしか自分もまた「老害」と言われるかもしれない(いや、既に言われているのかもしれない)視座を持てているのだろうか。老害を語るには、まだまだ考えたいことが山ほどある。だから私はこの言葉を使わない。

 マスゴミも似ているといえば似ていた。確かに、職業倫理が欠けた振る舞いをするマスメディア従事者がいるのかもしれない。が、そうでない、実直に己の使命を全うしようとしているジャーナリストもこの世の中にはいるはずで、マスゴミという言葉を使用したところで、我々は自分たちの首を絞めているにすぎないと思うのだ。情報の運び手(であり、収穫者)である人々を自ら追いつめているに等しいので。

 この本を読みながら、そういうことを考えていた。

 ジャーナリストとはかくあるべし、という各国のハンドブックのようなものも載っていて、メディア学とかジャーナリストを志す人にとっての入門になりそうな気配がしている。特に匿名の考え方は、日本と欧米でかなり違うように感じた。そりゃあ、匿名性の旧Twitterのユーザーが多い国ですものね。この本を読むと、ちゃんと新聞読もうという気分になる。