最果タヒ『コンプレックス・プリズム』を読みました。
いわゆる「小説ではない」本の読み方は様々である(いや、本のいうのは総じて読み方は様々だ)。中でも好きな読み方は「文章をからだに通す」というような読み方で、何も考えず、ただ水を流すように文章を通し、最後の文章を読み終わり、本を閉じて「で、なんだっけ?」と思えるような読み方。もちろんこういう読み方が可能な本ばかりではないし、「ばかり」であったらそれはそれで困る。
で、だ。
『コンプレックス・プリズム』はどうだったか、というと、難しかった。あ、そういう「私の好きな読み方」を実践するのが難しかった、というよりは、内容そのものが難しかった。読みにくさを感じて、それはどうしてなのだろうと読み終わった後も繰り返し考えている。
では読みながら何を考えていたのかというと「最果さんは自身の感情へのまなざしが細かいなあ」ということだった。私にはこの細かさがない。全然ない、と。私は自分のコンプレックスをここまで詳らかに考えたことがないし言葉にしたことがない。考えても無駄と思ってしまうのだ(あ、最果さん含めコンプレックスとの向き合いが無駄だとは一切思わない。念のため)。私には何があるのか、何がないのか。最果さんの文章を読みながらずっと考え、今もよくわかっていないけれど、それこそ「コンプレックス」かもしれない。多分辞書的な定義とは違うだろう。ただ私はコンプレックスを「世界に対する引っかかり」のようなものだと思う。
「恋愛って気持ちわるわる症候群」の章は結構印象に残っている。「恋愛って気持ち悪いなー」とは思わないけれど、
それだけで、私には恋愛はただの一種の感染症でした。
のくだりは、「うわー、これはすごい言葉」と付箋を貼って後で読み返せるようにしておいた(おかげでこうやって引用している)。
世界とはパズルのようなものでできていて、人が何かを語るたびにパズルのピースが埋まっていく。今まで見えていなかったものを可視化し、読む者が気づいていない何かを炙り出すような文章だったな、というのが、振り返ったときの感想になるだろう。