最果タヒ『恋人たちはせーので光る』を読みました。
詩の読み方がわからない。
詩 ①(文学の一形態として)自然・人情の美しさ、人生の哀歓などを語りかけるように、また社会への憤りを訴えるべく、あるいはまた、幻想の世界を具現するかのように、選び抜かれた言葉を連ねて表現された作品。
『新明解国語辞典』第七版
詩はわかりにくい。説明する為の手段ではない。おそらくだけど。
わからないので、私は「わからないということ」に苛立ち、そんな自分を幼稚だと思うことで詩から遠ざかろうとすることも幼稚だと思ってしまって無限ループに陥る。
その連鎖を断ち切るにはとにかく詩に触れるしかなく、また、楽な気持ちで付き合うということが大事だと思う。ということで、私は最近意識的に詩をかくことにしている。詩をかくことは好きなのだけどな、読むのは難しい。
詩への憧憬は音楽を好きになった時からあって、私は歌詞が好きなのだけれど、いざ自分で詩をつくると、「選び抜かれた言葉」という部分はその通りだなと感じる。私が詩をつくるとき「最善なのか」ということを考えないことはない。パズルのピースのように、言葉がはまる瞬間があるはずと思ってしまう。
最果タヒさんの作品はエッセイを読むことが多い。「わかるわかるー」とか「よくぞ言ってくれた」みたいな共感が時々おこる。一方で最果さんの詩は「わからないや」のオンパレードである。大体わからない。わからないながら読むのは、時々ハッとするような言葉に出会うからだ。今作だと「座礁船の詩」がずば抜けて好きだ。そして相変わらず詩の楽しみ方はわからない。
おそらくだが、同じ作り手でも好きな作品もあればそうでもない作品もあるということが、詩の面白さであるだろう。全部を好きにならなくていいということ、これは大切なことだと感じるが、何故かまではまだ言語化できていない。今後も考えていく。
世界とは何か。私たちは何か。詩は日常に忙殺される私たちに立ち止まるきっかけを与えてくれるのだと思う。とりあえず詩について言えるのは、まだ、それぐらい。