山崎ナオコーラ『かわいい夫』を読みました、嘘、読んでいる途中です。(その後読み終わりました。)
私は普段このブログの記事を書くとき、構成をまったく考えていない。だから今この文章を書き始めているけれど、書く内容は無計画出発だ。今、私は『かわいい夫』を読んでいる最中なので読み終わったら改めて「読み終わりました」という体裁で感想を書くと思ったけど、もういいか。これで投稿します。面白そう。
イレギュラーなのも理由がある。それは書きたいからだ。今、脳みそがまさにドライブしている感覚でそのまま書きたいという欲求に従って私はタイピングしている。わあわあ。
何を書きたいのかというと、誰かとの関係性について考えるとき、私は「死にたくなる」ということだった。おっと、仰々しい言葉だ。「」つきの「死にたくなる」ね。(あ、でも、楽しいのでいいのですが…)
これはつまり、誰かとの関係性について考えることは「私にとって刺激が強すぎて脳が破裂しそう」ということなのだけど(なんか一人で色々考えて、結果「死にたくなる」)この『かわいい夫』では、著者の山崎さんとその夫さんとの関係性を丁寧に丁寧に言語化していく。私の「死にたくなる」とは全く対照的だ、と思う。山崎さんの言語化能力つくづくすごいなあと感じる(他のエッセイも読みたい)。山崎さんなりの論理によって支えられた文章は、「なるほど」と思うことがあればピンとこないこともあるけれど、それでいいと思う。私はこの本を読みながら色々考える。抽象的な「やばいしんどいかも」を、言葉という道具を使って分解していく感覚。私たちには言葉があるのだという心強さもある。まあ、誰もが言葉の強さのようなものを信頼しているわけでもないし、逆に言葉をうっとうしがることもあるだろうが…。
うだうだ考えることが好きなのもあって、私はできるだけ言語化したいのかもしれない。それってどうなの、どういう意味なの? 確認しないと気が済まないし、私も自分の考えていることを言える範囲で言いたい(だからこんなブログをやっている)。
でもそれが誰に対してもできるかというとそんなことはなくて(だからブログをしている)むしろ世の中には考えることが好きではなかったり面倒だったりする人もいる。わかる。考えるペースは人それぞれで、それは尊重されるべきもので、それもあって私はおそらく「死にたくなる」のだろう。頭が破裂しそうという感覚は、内に蠢く感情が言語化できない、言語化しづらいということと、その感情に思いっきり身を委ねられないことのジレンマゆえ、という気もする。この「何を言うか」の調節って、とても大変だし負荷がかかる。が、仕方ないことなのだろう。
私の関係性構築下手の話はさておき、『かわいい夫』の中に、私は「言葉にする」という雰囲気を感じて、それが羨ましいなと感じた。素直に言葉にするって難しい。その難しさに私は一生勝負を挑み続ける気がしてならない。
山崎さんは夫のことを「かわいい」という。本心でそう思っているからだ。でも夫さんのことを「かわいい」と表現するのは、世の中的にはおそらくまだメジャーではない。男らしさ、女らしさ、母親らしさ、父親らしさの呪いのようなものはまだまだこの世には蔓延っていて、それらは解体できるものであることがこのエッセイでは示唆されている。もちろん解体したくない人はしなくていいけれど、既存の「らしさ」に悩み、それゆえに生きることがしんどいのならどんどん解体していっていいと思う。