ペク・セヒ『死にたいけどトッポッキは食べたい』を読みました。
タイトルに含まれている「死にたいけど」にドキッとさせられる。どうして人間には「自死」という観念?があるのだろう。
最近どこかで読んだ文章で「死にたいってのは結局自分の嫌なことから逃げたいってことでしょ(意訳)」というものがあり、この文章をそのまま肯定することはできないが(殊にうつ病などの精神的な病を患う場合)「まあ、そうかもな」と思う自分もいる。つまり、私の「死にたい」に限定して、だけれど(他の人の「死にたい」について語ることはできない)逃避としての側面はある。あるいは復讐。とはいえ、逃避やら復讐やらに回収できない「死にたい」もあるわけで、それは「ぼちぼち付き合っていくかなあ」というのが私の方針ではあるが、そもそもだ、そもそも、認知の歪みや環境に何か問題があるのであればそれは是正していきませんか、ということになる。本書では特に認知の歪みの部分に光が当たる。筆者が医者と対話する過程で改善していく流れとなっている。
以下は本書を踏まえての私のメモ書き。
白黒思考をやめること。あんまり自分は白黒的な考え方をしていないと思うのだが(とはいえ自己評価なのでずれはあるでしょう)まず、同じことを例えば親しい人に言いますか?多分言わないんじゃないかな、一定の留保をつけてマイルドに言葉をかけるのでは?というクエスチョンが入る。それと同じことを自分に対しても言葉がけすればいいのでは?いいや、他人にも同じような思考を求めてしまう、だと少しアプローチが変わってくる。白黒思考のメリットデメリット。白黒思考は何よりとても楽であり明快であること。非白黒思考はすっぱりと決めらないので消耗する。何かにすがりたいと思うとき、白黒思考の方が親和性が高い。
自己肯定感自己肯定感言ってるけど、自己肯定感って、必要?というクエスチョンが発生するのは、私の自己肯定感がある程度高いからなのか。
タイトルがすべてで、死にたくてもトッポッキが食べたいから生きるのである。だから私はなるべく多くの「トッポッキ」を作りたいと、常日頃思って生きている。たくさん生きれば、それだけたくさんトッポッキが食べられるんだぜ、最高じゃん。