8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

ばったん『姉の友人』感想

ばったん『姉の友人』を読みました。

姉の友人 (トーチコミックス)

 

※ネタバレ?あるかもしれないから注意してください

 

 

いつぞやから気になっていて、気になったことを忘れること何回目、ようやく買って読んだ。端的に言って、描かれてる人間の線が好きだ。

決定的な瞬間が決定的に描かれていると思った。その決定的な瞬間には説得力があり、その場面に差し掛かるとからだに痺れが走った。その美しさたるや。ガラスをぱきりと靴で踏みつけたときの感覚に似てる。何かが壊れる感覚。ひび割れる感触。

様々な観点でこの作品を見ることができるかと思うけれど、私はなかでも「持ち物」が気になった。

るり子は、姉の友人である今日子から色々なものをもらう。口紅とか香水とかイヤリングとか。今日子の部屋をあとにするときにもらう小さなプレゼント。

これは読むとわかることだけれど、今日子は自身の持ち物の境界というのが曖昧な人であるようだ。自分の持ち物を相手にあげること、逆に相手の持ち物をもらうこと、何かを買うこと、端々に描かれる今日子とモノの関係に「おや?」と違和感を抱いてしまうぐらいには不自然だ。

持ち物の境界が曖昧であること、私ならありえないなと思う。逆に私は自分の持ち物に対して愛着がありすぎるのかもしれないけれど、他人が自分の持ち物を勝手に取っていったり使ったりしようものなら絶交だ(絶交は言い過ぎ、嘘です。でも普通に怒る)。

私は「選ぶ」ということに矜持を抱いているのだと思う。何かを買うことは何かを選ぶことと同義。何かを選ぶということは自分の願望を把握することと一緒。自分が何を望んでいるのかをわかっていることと同じだと思っている。まあ、私がどれほど自分の望みを理解しているかは怪しいところもあるが、少なくとも何かを選ぶときはとても真剣に選ぶ。そう考えると、今日子とモノの不安定な関係が示唆することはなんとなくわかるような気がする。今日子と彼女の望みとの距離間に注目しながら読むと面白いのではなかろうか。るり子もるり子の姉のナツ(本名がわからないのでナツにしておく。なつ子かもしれない)もモノとの付き合い方は正しく、口紅で己を彩ることの楽しさを知っているように見えるのが今日子の対比として良い感じだ。

と、「今日子はモノとの付き合い方が不安定だ」みたいな趣旨でここまで書いてきたけども、彼女は作中にこんなことを言っている。

あたしがいちばんきらいなのは

いちばん欲しいものが手に入らない

あたし自身だ

ふむ。むむむ。

今日子さんごめんなさい、という気分になってきた。欲しいものが手に入らないという感覚か。私は普段どうやってこの欲しいものが手に入らないことに付随する感情を消化しているのだろうと考えてみたけれど実のところよくわからなかった。飽きるか忘れてしまうのか諦めるか。そう、忘れられないくらい欲しいものが手に入らないのだ、と今日子は思っているのだ。それはしんどいな。

先ほどの私の「選ぶ」論に紐づけて恋と愛の違いを語るなら、恋は選べないものなのかもしれないなとふと思った。受動的に翻弄されるもの。愛はもっと実践的で能動的なもの。そういう意味では、今日子の中の感情が恋から愛に変わる過程が描かれてるのかなあなんてことを考えて、これにて感想はおしまい。