恩田陸さんの『中庭の出来事』を読みました。
「読みました」といっても再読ですが、やっぱり意味が分からない。そんなところが好きです。読了後、相関図みたいなものをまとめてみたけれど、それでもわからなかった。けど、好き。よく喋るし、「わからない」「混乱する」がそのままあってもいいと思う。わからないから苦手とか嫌いとか、私もそう言い捨てちゃうことあるけれど、わからないでもいいじゃないですか。
物語が入れ子状態になっていて、読みながらどうしてもイメージしてしまうはロシアの人形マトリョーシカ。さて、一番深い部分に存在する「中庭の出来事」はどのパートでしょうか?
「内側」と「外側」は思っている以上に区切られたものではないということ。人は見ているし見られていること。人は演技しているということ、など頷けることも多くて日常の自分を顧みてちょっとだけゾクッとしました。ああ、あの時の自分馬鹿やってんな、みたいな風に恥じ入る気持ち。
人々は見ることで消費する存在であるのと同時に、見られることで消費される存在でもある。見る者と見られる者は、いつなんどきひっくり返っても不思議ではない。外から鑑賞する目と内から鑑賞する目を持ってしまった現代人は、その二つの目に引き裂かれたままになっているのだ(p.298)
この作品を読んでいる私は、「外側」にいると思っているけれど、それは本当だろうか?本当にその通りだと言える証拠がどこにあるのだろう?多分どこにもない。永久にマトリョーシカの人形のまま生きる。
「自分はマトリョーシカ人形の一部かもしれない」と読むたびにちらっと思わせてくれるこの小説が、私は好きです。
恩田陸さんの『中庭の出来事』を読み終わりました。