以前何度か読んだことがある作品ですが、再読しました。初読では主に謎解きを、再読では登場人物の振る舞いや主人公である結城の思考を楽しみながら読むことができます。本当はミステリを色々知っていればさらに楽しめる作品だと思いますが、ミステリ全然読まないので…。
知っていることが明暗を分けること
いわゆるクローズド・サークル。
閉鎖された空間で、寝食を共にする人の中にしか犯人がいないという事実によって狂気錯乱する人々。『インシテミル』ではさらに「推理ゲーム」の要素が加わり、殺すのか生き残るのか犯人を暴くのか、策略と生き残り戦略が楽しい物語となりました。愉快な話ではないですが、主人公の結城がどこかズレていて危機感があまりなかったり(須和名嬢にいい顔見せようと隙あらば考えているのは面白かった)どう考えてもその場にふさわしくない出で立ちと物腰の須和名嬢の素っ頓狂さも良かった。普通は主婦の渕さんあたりが市井に生きる人として正しい振舞だと思います。
ゲームを主宰する組織がミステリ読みなのか、実はミステリ好きなら瞬時に察する演出。ミステリを知っているから慌てるのか、知らないふりをするのか、自分の目標到達のため存分に利用するのか、知らないから恐怖を抱かないのか。最初に「暗鬼館」に足を踏み入れた時点での参加者の振る舞いに注目してみてください。「知っている」ということは、我々が思っている以上に大きいのだと思います。知識は金で換算はしにくいけれど、知らないと有事の際の生存率が変わりそう。
私は学生だった時「知っていて何かいいことでもあるのか」と思っていたことがありました。知ることは好きだったので勉強はしましたけれど、目の前の教科書の知識って、果たして必要なのかなと。今なら「必要かどうかわからないんだしとりあえず頭に詰め込んでおけば?」とか「暇つぶしにはなるだろうし知っていてもいいんじゃない?」とか答えることができますし、何より「知るのと知らないのとじゃ大きいよ」ということは言いたいです。お金になるとか、「~すべきだから」とかじゃない。知っていると世界の見え方が変わるのだから知っていていい、と。
結城は知っていたけれどちょっと調子に乗ったところがあって、そういうのも知っている人間らしくて良かったです。
人はどこまで思考を持ち続けられるか
この物語の一番好きなところは、ある局面で参加者たちがまともな思考を捨てるところです。論理的で非常に説得力があるけれど残酷な事実を指摘している意見か、論理的に破綻しているけれど自分にとっては都合の良い(そうあってほしい)意見か。この2つを前にしたとき、残っている参加者の多くは(といってもそのうち一人は犯人だけど)まともに考えることを放棄したんです。これが良かったです。
きっと、そういうものなのだろうなぁ、と。だからこれから生きていくうえで私自身そうならないように気を付けないといけないし、既に今の世の中のムードが同じ状態に陥っているよなぁ、と思いました。人間は時として論理を無視し自分が願っている意見を選択することがあります。でも、それって「願いたい」だけのことで、冷静に考えると殺人犯がまだ生き残っている可能性だってあるのだから自分が殺されることだってありうるのに。それでも「犯人は死んだ」って思いたいのです。だから考えることを放棄する。
私も感情過多になりがちな人間なので、いざというとき論理を大切にできるよう、考えることをやめない人間になりたいと思いました。
ということで、残酷だけれど手に汗握る面白い作品です。私は何度も読みたいし、再読に耐えうる物語だなと思います。