村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。
読みやすかったと思う、それほど村上春樹の長編は読んでないけれど(スプートニクの恋人とねじまき鳥クロニクル)一番読みやすい作品では、とさえ思う。じゃあ物足りないかというとそうでもなく、特に沙羅さんを表参道で見かけたところからの私の盛り上がりはすごかった。いいぞやったれ!と応援した。何に? なんだろう、物語の神様にかしら。
選ぶ、選ばれないという話だったと思う。この選ぶ、選ばれないというのは私たちのとても身近なところにあるものなのだけど、改めてそれを考えるかというと、私は考えないかもしれない。選ばれなかったら選ばれなかったで違う道があると思ってしまうから。つまり切実さがそこまでない。その切実さの無さは、異常ではと時々思う。多崎つくるは二度と、いや三度? 選ばれる、選ばれないの岐路に立たされた。彼に因るところではなく、外的な他者の都合で(もちろん多崎つくるだからこそその分岐に立つわけだが)。色彩を持つ高校生たちのグループ、灰田、そして沙羅。どれも多崎つくるにとっては切実な関係性だった。さて、我々読者はそういう関係性を持っているのかな? 私は、わからない。
あと、多崎つくるは泳ぐ人間なのだけど、32分くらいで1500mを泳ぐの、まあまあ早くて悔しい。500mを10分ぐらいということは50mを1分くらいで泳ぐということでしょう? 普通に泳げる人だよな(悔しいと言いつつ、私もちゃんと1分ペースは守れますけども…それは練習してきたからなので…)。あと、1500mを一気に泳ぐ(のかは知らないけど)のは私から言わせれば長くて単調で退屈な行為でしかないので、それに耐えられるで多崎つくるすげえや、と思った。