8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

恩田陸『エンド・ゲーム』感想

 恩田陸『エンド・ゲーム』を読みました。

エンド・ゲーム 常野物語 (集英社文庫)

 恩田陸作品の中でも「常野シリーズ」と呼ばれている作品群の1つです。読んだことはあるけれど、再読はあまりしてないシリーズ。特に深く考えてはこなかったけれど、どうしてなのだろう。嫌いなわけでも苦手なわけでもないのに。この話を読んだのはおそらく中高生ぐらいの時でしょう。

 今回いちばん驚いたのは、自分が記憶していたあらすじと実際の物語のストーリーがかなり異なっていたこと。違う話が混ざってしまったのだろうか?腐食したイチゴとか銀色に光るボウリングのピンなどは覚えていたのに、それ以外のストーリーはどうやら間違えて?記憶していたようです。少しショック。記憶というのは本当に当てにならないものだなあと改めて思い知らされました。

 

『洗濯』

 時子たちが火浦に『洗濯』された後の世界がすごくグロテスクで印象的でした。その世界は欺瞞に満ちているということを読者はすぐに気づくわけですが、登場人物はそれがわかっていない(わからないふりをしている)。本当は麦茶なのにリンゴジュースだと思いながら飲んでいる人を見ているような、そういうはっきりとした違和感がしばらく続きました。

 しかしそこで思うのは、どうして偽っている人、嘘に満ちた世界に人は敏感になり違和感を抱くのだろう、なんなら気味悪く思うのだろう、ということです。当事者たちが安らかで幸せそうならそれでいいのではないか。本当のことは幸せとは必ずしも相性がよくないけれど、それでも真実を希求するのは人間の性(さが)なのか。

 

あれ

 時子たちが悩まされる『あれ』の存在は、作中も明確に説明されるわけではありませんでした。『あれ』がなんなのか最後まではっきりしない。

 「妄想を抱いた人が他者を取り込もうとする、自身の妄想の世界に巻き込もうとする際に生じた違和感への反応」とか「ある種の精神的疾患に反応したもので、その精神的疾患とは人間の中に元々いた古い生命体(この存在のおかげで人は知性や霊感を発達させていった)と関連している」とか、まあ、色々仮説はある。

 時子たちと『あれ』はオセロゲームの白と黒のようなもので、常に「裏返し」たり「裏返さ」れたりする。この攻防が『エンド・ゲーム』で描かれているのだと。

 ただ物語の終盤で、実は白と黒にはっきりと分かれていたものの区別はもはやなくて、白も黒も同じなのだと、白と黒がない、その中間として灰色を採用するならば、オセロ(世界)に存在する駒は表も裏も同じ灰色なんだということが明かされます。表も裏も区別がつかないのだから、ことりことりと裏返し裏返されることに意味はないということらしい。この説明を聞いて思い出したのは、すべてのピースが真っ白なジグソーパズルでしたけど、パズルをこの世界に持ち込むのはまた別物なので深堀はやめておきます。

 興味深いのは、「『あれ』に反応する人々が『あれ』に負けた」という表現ではなく「『あれ』に取り込まれた」という表現をしたところです。取り込まれたことは負けたことにはならないのだろうか。数の力で押し切られたということにはならないのだろうか、云々。

 『あれ』は視覚的に見えるものだけれども、目に見えない、例えば人々の価値観だと考えた時、実は『エンド・ゲーム』の世界はまったくの他人事ではなく、今この現代日本でも日々起こっていることなのではないかなあと思いました。陰謀論とかそういう話です。と考えると、時子たちが感じる強い恐怖は決して無縁なものではない。

 

気づかないふり

 恩田陸作品の登場人物は、総じて聡明でよく喋る(頭の中で)というのが私のイメージですが、そこに新たに加えたいのが「気づかないふりをしがち」という要素です。

 本当は気づいているのに、知っているのに、無意識に気づかないふりをしがち。恩田さんの物語はそうして心の奥底に封じ込めているものが解放される過程を描いていると言ってもいいかもしれないなあとまで思ってます。『蜜蜂と遠雷』はそもそも囚われてない風間塵に触発されて栄伝亜夜が解放されていく物語だし、『麦の海に浮かぶ果実』も本来の自分を取り戻す話。『ネバーランド』も思い出していく、過去から解放されていく話だし、『球形の季節』も高校生たちが変容していく話。そもそも小説において「何かに触れることで解放されていく人々」というある種のパターンはあるのだろうなとは思いますが。

 どうして囚われるのか、封印してしまうのかというと、恩田作品を読んでいると「気づいていることは苦しいこと」というイメージが浮かびます。物事に聡いことはそれだけ感覚が鋭く無用の苦しみが生まれ、気づかない人々との区別によって孤独感が生まれる。

 苦しみがあってもなお、解放されるべきである。作中で明確に「~されるべき」とは主張されてないものの、恩田作品の登場人物たちが最終的に解放されていく様を見ていると、多少の苦しみはあっても己を開放して聡明さを活かした方がいいという方向なのかなと思います。

 抑圧しているものから解き放たれること。恩田作品の中の登場人物たちが飛び立つ様を見ていると、そのきっかけはドラマティックで(なにせ小説なので)私たちの日常には滅多に起こらなそう。だからこそ小説を読むということは一つのきっかけになり得るのかもしれません。