恩田陸『灰の劇場』を再読しました。
読むのは2回目か3回目かぐらい。
大学の同級生の二人の女性は一緒に住み、そして、一緒に飛び降りた――。
いま、「三面記事」から「物語」がはじまる。
きっかけは「私」が小説家としてデビューした頃に遡る。それは、ごくごく短い記事だった。
一緒に暮らしていた女性二人が橋から飛び降りて、自殺をしたというものである。
様々な「なぜ」が「私」の脳裏を駆け巡る。しかし当時、「私」は記事を切り取っておかなかった。そしてその記事は、「私」の中でずっと「棘」として刺さったままとなっていた。
ある日「私」は、担当編集者から一枚のプリントを渡される。「見つかりました」――彼が差し出してきたのは、一九九四年九月二十五日(朝刊)の新聞記事のコピー。ずっと記憶の中にだけあった記事……記号の二人。
次第に「私の日常」は、二人の女性の「人生」に侵食されていく。
新たなる恩田陸ワールド、開幕!
0と(1)と1という異なる3つの視点で構成されている作品です。この違いを押さえるのが初読みの際は苦労した記憶があります。書かれたもの、書き始めようとしている者、書かれたものが舞台化される者。書かれたものが舞台化される者という視点を入れたのがユニークなところではないかと考えています。ここで改めて立ち止まることで「私は何故彼女たちを書いたのだろうか。それはどういうことだったのか」という内省が生まれ物語に奥行きをもたらしています。
最初に読んだときは、書かれたものパートがとにかく印象深く、大学の同級生である二人の女性が出会ったときの回想から、やがて訪れる「その日」までの描写は、いずれも共感を抱かざるを得ない。足元からせり上がってくる諦念に息が苦しくなりました。一番好きなのは、TがMの部屋に忍び込んで化粧品を見つけるところでしょうか? 在宅ワークで家に閉じこもり、世間とは没干渉のTに対して、会社勤めのMに訪れた一時のロマンス、恋がMを変え、Tは最新の化粧品を見ながらMへの恨みつらみを募らせていく、という場面。人が人に嫉妬するというありふれた現象も、やっぱり書き起こしてみれば怖いものよね、となりました。相手の呪うようになったら物理的に離れた方がいいと思うけどな~というのが、この場面に差し掛かった時の感想で、TとMは離れるタイミングがいくつかあったけれどそれを逃してしまったというのも読んでいてわかります。そう考えると怖いもので、こうして読んでいれば「ああ、あのときが分岐だったのね」と振り返ることができるけれど、人生は不可逆であり時の流れは一時停止しませんから、一つひとつの分岐を検証するのは意味があるけれど、それは来たる次の分岐に備えてのことだよな…。
最初印象に残ったのはTとM、二人の女性の生活模様でしたが、3回目になると、それを書く者の視点が気になってきます。自ら川に飛び込んだ女性を書くというのはどういうことだったのか。彼女たちは何者だったのか。それを舞台化するというのはどういうことか。書くときと舞台では何が違うのか。同じ事象(二人の女性がある日共に川に身を投げた)を何回も何層にわたって考えていくのが『灰の劇場』の構造なのでした。様々な示唆に富んでいる作品という気配はするけれど、まだまだ掴み切れていない感じがします。歯がゆい。
一つ考えていたのは、記号と具象化の往復作業を読んでいるのだろうということでした。舞台に近づけば近づくほど具体性は剝ぎ棄てられ記号化していく、書かれたもの二近づけば近づくほど具体的な生々しい肉を付与されていく。このチューニング作業はできる必要があるし意識して使いこなす必要があるよな…ということだったり、とはいえ、実際の出来事を語ることはできないのだとか(当事者ではないから)。いや当事者であっても、それは一つの真実でしかなく、人間が語る以上「物語」が含まれるよな?とか。
読みながら色々なことを考えた作品でした。スルメみたいな作品です。