8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

恩田陸『白の劇場』感想

 恩田陸『白の劇場』を読みました(2023年5月)。

恩田陸 白の劇場 (文藝別冊)

 積読して2年、やっと読み終える。

 恩田陸ほど様々なジャンルの作品を楽しそうに書く作家を知らない。嘘かも。でも本当に知らない。恩田さん自身は一人称複数の小説を書くのが得意とのこと、私はそれを読書ノートにメモった。とにかくたくさんの著作である。すごいなあ。

ライマン・フランク・ボウム『オズの魔法使い』感想

 ライマン・フランク・ボウム『オズの魔法使い』を江國香織訳で読みました。

オズの魔法使い (小学館文庫)

 

 児童文学のジャンルだろうけど、面白く読めた。幼心に、北と南に善い魔女がいるならば、どうして東と西の魔女を倒さないのだろうと思っていたのだけれど、考えた結果、以下の二点かなあと思う。

  1. 善い魔女には悪い魔女を倒す力がない(悪い魔女の方が強い)
  2. オズの国には内政不干渉の原則がある

 前者については、そもそも「何かを討つ」という行為はまったく善良な人間にはできない説。後者については、ドロシーという、その世界の摂理の外にいてどの国にも属していない流れ者だからこそ国を横断し悪い魔女を討てた説。ファンタジーは脈々と受け継がれるエッセンスみたいなものがあるジャンルなので、『千と千尋の神隠し』はかなり頭に浮かんだ。外からやってきて、再び出ていく少女の物語。不思議の国のアリスもそうなのだけど。いや、ファンタジーというのは、主人公が世界の内側にいる人間か外側にいる人間か、この二択は絶対発生してしまうか…。

 西の魔女を殺しなさい、と言われたときに、自分はこれまで意図的に人を殺めたことはないし、願いをかなえるためとはいえ、誰も殺したくない、と言ったドロシーを読んで、この物語は信頼できると思ってしまった。その辺りはっきり主張するのって大事だけど曖昧な作品も多い。

稲垣えみ子『寂しい生活』感想

 稲垣えみ子『寂しい生活』を読みました。

寂しい生活 魂の退社

 

 電気は欲望を解放させるもの、というようなフレーズが印象的だった。私の考えでは、人間の欲望を今までは不自由さが抑えていたけれど、その歯止めが技術の進歩で一つ一つとクリアになっているという印象。じゃあ、不自由な中で欲望はどのようにあったかというとそれはまたわからないが…。SFを読んでいると、末期の荒廃した地球ではインフラは崩壊、人々は自力で生きていくしかないというシチュエーションになるわけだが、私の生きている間に地球はそういうことになるのだろうかということは結構考える。ありうるだろうなと思う。そういう世界の欲望はもっと動物的なものが前面に強化されるのかな、など。地球というものに対して、人は消費するエネルギーは膨大な癖に、残すものはわずかしかなく(肉と骨が腐って生物の栄養になるぐらい)罪深い生き物だなあと思ってしまうのだった。大量生産、大量消費社会をどうにかしてほしい。労働とは何か、賃金とは何か、生きるとは何か、そこに電気とは何か、という問いが追加される。

村上春樹『国境の南、太陽の西』感想

 村上春樹国境の南、太陽の西』を読みました。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

 この作品は『ねじまき鳥クロニクル』から切り離された物語だと、どこかで読んだ。その事前情報を踏まえて読むと、確かに「ここはあの部分だな」と思える箇所がいくつもあり、それは独特な感覚だったと思う。まるきり違う話であるのに、どこか通じる部分があるという奇妙さ。

 この本を読んで思ったのは、人生というのは出会う人間を通過していくことなのだ、ということで、具体的に言うと、僕である始が高校生(だったか?)のときに出会うガールフレンド、イズミである。私は始がイズミとイズミの従姉にしたことについてとやかく言うつもりはないのだが、残酷だなあと思ったのはその出来事の後の扱い方だった。その出来事は始に大きな影響を与え、彼自身もとてもショックを受けたと書かれているが、その重みを私は上手く掬えていないのかもしれない。端的な話、イズミに対して冷淡すぎやしないか、そりゃああんまりだよ、ということを私は言いたい。始はイズミを通過していった。彼女は現在進行形で始に影響しているけども、一方で彼女は過去の人ではないのかということ。その「過去の人」というところに、私は冷酷さを感じたのだろうと思う。でも、別にこれはこの小説の主人公だけでなく、私も他の人もそうで、過去の人は過去の人になるのであり、それって仕方ないけど寂しいことだよね、ということを思った。村上作品の主人公は、よく過去に囚われているなあと思うけど、囚われながらもその距離は遠い気がしてならない。他の物語だともっと生々しい距離にあって囚われているのに。それが不思議な感覚を醸成している気がする。

「「十二国記」30周年記念ガイドブック」感想

 「「十二国記」30周年記念ガイドブック」を読みました。

「十二国記」30周年記念ガイドブック

 

 十二国記シリーズ好きなら楽しめるガイドブック。いや、そもそもガイドブックを読むのは十二国記シリーズに親しんでいる人か。

 読みながら「ガイドブックを読むというのは何なのだろうか」ということを考えていた。そりゃあ、十二国記シリーズの読者であるから私はこのガイドブックを手に取ったわけだけれど、シリーズや作家に惹かれ熱心に読み続けるのはどういうことか、ということ。シリーズでいえばシリーズ通して描かれる世界に惹かれてのこと。作家であれば、作家が書いてきた世界に惹かれて、ということだろうか。

 ガイドブックにはその物語世界の全容を知りたいというオタク心と親和性があるが、私は今回のガイドブックを読んですべてを知ることができるなんて不可能なのだという気持ちを強くした。それはネガティブな感情では決してなく、「そうだよね」という納得感に近い。十二国記の世界は著者の小野先生の頭の中から生まれるが、なんというか自発的?に存在しているものだと思う。何が言いたいのかと言うと、十二国のすべてが今後、明らかになることは多分無い。このシリーズは全てを明かすようにはできていないということを教えてくれたのが本ガイドブックであった。

 小野先生の心の向くままにあの世界を描く物語が少しでも世に生まれますように。私はそれを読めますように。そう願える作品に出合えただけでも僥倖なのだろうという気がしている。

岡尾美代子『センスのABC』感想

 岡尾美代子『センスのABC』を読みました。

センスのABC

 スタイリストである著者のセンスにまつわるエッセイ。ファッションに疎いので、見知らぬ単語に出会うたびに調べながら読みました。楽しいね。

 幼い私にとって「センスがいい」というのはそれは恐ろしい言葉だったのだけど(「あなたセンス悪いね」なんて言われたらどうしようと戦々恐々だった)今はあまり気にならないな。自分の好きなものを手元に置くことが楽しいから。羨ましいなあ、すごいなあ、という気持ちではなく、自分にはない発想、見方に触れることができるという点で、こういうエッセイはとても好きです。楽しく読めました。

村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

 村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)

 読みやすかったと思う、それほど村上春樹の長編は読んでないけれど(スプートニクの恋人ねじまき鳥クロニクル)一番読みやすい作品では、とさえ思う。じゃあ物足りないかというとそうでもなく、特に沙羅さんを表参道で見かけたところからの私の盛り上がりはすごかった。いいぞやったれ!と応援した。何に? なんだろう、物語の神様にかしら。

 選ぶ、選ばれないという話だったと思う。この選ぶ、選ばれないというのは私たちのとても身近なところにあるものなのだけど、改めてそれを考えるかというと、私は考えないかもしれない。選ばれなかったら選ばれなかったで違う道があると思ってしまうから。つまり切実さがそこまでない。その切実さの無さは、異常ではと時々思う。多崎つくるは二度と、いや三度? 選ばれる、選ばれないの岐路に立たされた。彼に因るところではなく、外的な他者の都合で(もちろん多崎つくるだからこそその分岐に立つわけだが)。色彩を持つ高校生たちのグループ、灰田、そして沙羅。どれも多崎つくるにとっては切実な関係性だった。さて、我々読者はそういう関係性を持っているのかな? 私は、わからない。

 

 あと、多崎つくるは泳ぐ人間なのだけど、32分くらいで1500mを泳ぐの、まあまあ早くて悔しい。500mを10分ぐらいということは50mを1分くらいで泳ぐということでしょう? 普通に泳げる人だよな(悔しいと言いつつ、私もちゃんと1分ペースは守れますけども…それは練習してきたからなので…)。あと、1500mを一気に泳ぐ(のかは知らないけど)のは私から言わせれば長くて単調で退屈な行為でしかないので、それに耐えられるで多崎つくるすげえや、と思った。