8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

アントワーヌ・ローラン『赤いモレスキンの女』

 アントワーヌ・ローラン『赤いモレスキンの女』を読みました。

赤いモレスキンの女 (新潮クレスト・ブックス)

 

 本屋で平積みになっているこの本の前に立ち、少し悩んでぱらぱらとめくっても決められず最後に信じたのは「モレスキン」という言葉でした。モレスキンを使ったことがある縁で。そしてモレスキンをどうやら使っているらしい女の人。その人が登場するなら悪い話ではないだろうと思いました。

 

 その人がどのような考えを持っているか、何を好むか忌避するか。価値観よりも、モレスキンに何かを綴るという行為に魅かれました。それも言ってみれば「モレスキンに日頃思ったことを書き綴ることを習慣としてしまう価値観」という、価値判断の話にはなるのですが。

 何故魅かれるかって、私もとにかく色んなことを色んな場所に綴りたくなる習性があるからです。(このブログもそう!)ロールに魅かれるのは、自分を理解したいという思いがあるわけだ。ロールのモレスキンの中身は、きっと彼女以外のモレスキンと同じで、個人的で茶目っ気がありドキドキする内容でした。誰にも語られることのない思索が、誰にも見られないことを前提に率直に綴られた場所。正直、ローランが彼女のモレスキンの中身を読んだ場面では、思わず「やめてくれ!」と心の中で叫んでしまいましたが、それはやっぱり自分だったらと考えればやめてほしかったから。でも、人生が動くためには、エネルギーが必要なんだなとも思いました。突破する力が必要なんです。

 ローランとロールは出会いましたが、ローランがロールのモレスキンの中身を読むことが二度とありませんように、と願ってしまいました。そしてしばらくモレスキンと手に取っていない私は、久々にモレスキンが欲しくなり廉価版ではありますがAmazonでぽちってしまいました。やれやれです。

朝井リョウ『どうしても生きてる』感想

 朝井リョウさんの『どうしても生きてる』を読みました。

どうしても生きてる (幻冬舎単行本)

 

 朝井さんの本はこれまでもたくさん読んできて、学生時代に初めて知った作家さんだけれど、ああ、どんどん読後感が変わってきているなと感じます。私が変わった部分もあるだろうし、朝井さんの取り上げるテーマも変わっているからだろうと思います。でも本質的な部分は変わってない。

 読み進めるのがつらいです。しんどい、しんどいと思いながらページをめくるけれど決して「読みたくない」にはならない。そこが私が朝井さんの作品を読むうえで面白いなと思っているところだし、同じ感想を抱く人もいれば抱かない人もいることはわかります。

 どうしてつらいのかというと、私が普段気づいていたり知っているけれどあえて言語化してないことが、言葉として表現されているからです。そしてそれらの多くは残酷です。残酷で見たくない、理解したくないと避けていることが容赦なく登場してくる。そこで私は自分の狡猾さと対峙せざるをえないし、誰かから横っ面をはたかれるような感覚を味わいます。ばつが悪いです。

 一番好きな短編が『籤』、あとは『健やかな論理』でした。本当にきつかった。でも、いいなぁと思ったところがあって、どの話も「生きる」ことが前提とされていたところ。どうしても生きてる話であることが嬉しかった。みんな生きることの話をしていたのが心強かったです。

アガサ・クリスティー『第三の女』感想

 アガサ・クリスティーの『第三の女』を読みました。

第三の女 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 表紙が孔雀なのは笑いました(笑うところではないかもしれない)。孔雀。

 「第三の女」というタイトルはどういう意味なのだろうと読む前は思っていたのですが、なるほどです。しかし意味深いというか、誰のことを指して第三の女なのだろうかとは思いました。

 なかなか難しい話でした。正直私がきちんと話の内容を理解できているか怪しいです。

 

 クリスティーの面白いと思うところは、結局、人を殺めることが目的(つまりそこに快楽のようなものを感じてしまう)以外で、人が人を殺める動機って限られるということが巧妙に隠されている点かもしれないです。それだけ、人は人を容易には殺さない世界(である一方、人は人に驚くほど冷酷な世界でもある)なのだと思います。

 人が人を殺す動機は、最有力候補は金。次に秘密の暴露を恐れての口封じ。シンプルな憎しみ・怨恨による殺人もある。それぞれで押さえておくべきポイントが違うということも、知ってはいたけれど自覚してはなかった。金なら、所有している資産、未来で得られる遺産、財政状況、会社の経営状態がポイントになるし、秘密の暴露なら、その人の過去で気になる点を洗い出すといい。怨恨もその線か。名探偵ポアロも、この「人が人を殺める動機」の基礎に忠実なんですね、ということをこの『第三の女』の中でちらっと登場するポアロの思索?を読んで知りました。

 第三者にとってはあっと驚くべき殺人であっても、まずは基礎をおさらいすること。逆に言えば、その表面的な異常さはそれとして、振り回されないということ(私は見事に振り回されてしまいましたが)が名探偵であるためには大切かと思います。が、一読者としては振り回されてナンボの世界ですので、この気づきは忘れたいと思います。今年もたくさんクリスティーを読むぞ。

坂口恭平『cook』感想

 坂口恭平さんの『cook』を読みました。

cook

 

 料理って実践だよな、と思う。創造的。その通り。料理研究家の土井さんの著作を読んで「なるほど」と思ったのは、人は料理に対して厳しすぎるところがあるということ。もっと軽やかに、作っていいはずだ、料理ってのは。

 ということで、ベーコンエッグが食べたい(二度目)

恩田陸『ネバーランド』感想

 恩田陸さんの『ネバーランド』を読みました。

ネバーランド (集英社文庫)

 

 昔読んだはずなのだけれど、結末をおぼえられていない。ということで楽しく読むことができました。「ネバーランド」というタイトルもなるほどね、と。

 恩田さんは閉じられた世界を描くのも上手い、というよりも、それがキーワードである作家さんだなと思います。『麦の海に浮かぶ果実』『夜のピクニック』『六番目の小夜子』『球形の季節』。数を挙げればきりがありません。閉じられた世界で生きる人々、その人々の閉じられた世界。世界と、そこで生きる人の心が閉じられている感覚です。その「閉じられている」というのを私は「内向的」「内省的」と捉えているのですがどうなのでしょうね。

 閉じられた空間で、自我が肥大化し他者への憎悪が育まれる一方で、この『ネバーランド』という作品は他者への興味関心、理解に繋がっていくところが素敵だなと思いました。

 

 恩田作品の会話でむしょうに好きになる言葉ってのがひとつやふたつあるけども、『ネバーランド』ならこれだな。ああ、ベーコンエッグが食べたい。

「とっとと食え。俺、ベーコンの脂が皿の上で固まっているのって、この世で絶対許せないもののひとつなんだ」(p.54)

 

江國香織『きらきらひかる』感想(再読)

 江國香織さんの『きらきらひかる』を再読しました。

きらきらひかる (新潮文庫)

 

 突然ですが「あ~~~~『きらきらひかる』読みて~~~~」となりましたので、今度こそは本屋さんで買ってきました。そういう衝動的な読み方、好きです。

 自分が何故「あ~~~(以下略)」となったかは不明です。嫌なことがあったわけでもないですし。ただ、最初の章「水を抱く」という言葉から、以前読んだときに流れる水のようなさっぱりさを感じたのだろうか。そうかもしれません。あとは笑子ちゃんの持つウイスキーのグラスが氷でカラカラと鳴るところも想像したのかもしれません。流れたかった。

 読みました。やっぱり面白い。笑子はアル中、睦月はホモで恋人あり、という説明書きの簡潔な残酷さがより二人の取り巻く環境の厳しさを体現しているような。「ホモ」という言葉は私は使わないな。今も使われるのだろうけれど、昔の使われ方と何か違うところはあるのだろうかとか、そういうことも考えていました。

 笑子はアルコール中毒者、という説明と、作中で書かれる笑子がしっくりこない。それが、私が『きらきらひかる』から受け取った一つの教訓?そういう堅苦しいのは嫌だな、発見?だと思います。つまりラベリングしたところで内実はさまざまだし、そこに人の生き方とか考え方とか、蟹でいうカニみそのような美味しい部分なのではないか?ということです。笑子ちゃんは(笑子ちゃんって呼びたい)お酒が好きで、絵のおじさんに歌を歌ってあげられる人で、紺くんのプレゼントしてくれた木には紅茶をあげてしまうような素敵な人なんですよう。文庫本の裏表紙を見ながら私はそう毒づきます。

 笑子の人生を楽しもうとする姿勢、睦月の優しさ、紺くんの悪ガキさがいつまでもお互いを支えられるように、と願いながら私は本を閉じました。

江國香織『きらきらひかる』感想 - 8月2日の書庫

岸政彦『図書室』感想

 岸政彦さんの『図書室』を読みました。

図書室

 

 まずご自身で撮られたという表紙の河川敷の写真(川面は少し波立っている)と直筆のタイトルと著者名がいいんだわ…。『図書室』なのに河川敷?と思ったけれど、なるほど、これは確かにこの表紙でなければならなかったです。

 『図書室』という小説と、『給水塔』という書下ろしのエッセイ?なのか小説なのか、が収録されています。これは西の文学なんですね。関西弁ってやっぱりいいなぁと思います。これが仮に翻訳されたとき、例えば英語なら関西弁はどのように表現されるのでしょう?そういうことを考えると、いわゆる方言(標準語というものがあったとしても、方言であることに変わりはない?)が文体としてどのように表現されるのかという点は、とても興味深いことです。

 図書室。これが図書館でもなければ、学校の図書室でもない。家と学校とそれ以外。「第三の場所」というところがいいなと思いました。図書館だと人が多すぎる。学校の図書室は学校という閉じられた世界に巻き込まれている場所だからイマイチ。公民館の図書室の「ちょうどよさ」は一体なんなのでしょう。

 読みながら、図書室というのは主人公たちにとっての世界であり、同時にさらに外に広がる世界の交点だったかなと思いました。公民館のひっそりと人気がない図書室のさらに奥にある子ども用コーナーの一点から、世界の終わり、終末へと拡張していく感覚が面白かったです。見えていないからこそ、わからないことがあるからこそ、そこまで拡張できてしまうのかもしれないです。小学生の目に映る限られた世界という点でも、この小説は見事に限定的で独りよがりなところが描かれていたと思います。