8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』感想

 大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』を読みました。

生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想 (星海社 e-SHINSHO)

 

 明確な自殺願望があったわけではなかった。私は一般的に恵まれていると言える状況だった。なのに生きづらいと思っている自分がいた。運動がそこそこできて成績もそこそこよくて。自分の意見もはっきりと発言する。明るくて元気ですね、と言われる。だけど生きづらかった。そして生きづらいと思うことがとても後ろめたかった。私の「生きづらい」は嘘なのではないか。この世にはもっともっと生きるのがしんどい人がいるはずで、こんな私が生きづらいと思っていいはずがないと思っていたのだけれど、そうなると本当に色々と「無理」だったので、わかった、私は生きづらいのだ、と思うことにした。あるとき。

 そして、色々と考えた。自分は生きるのか生きないのか。どう生きたいのか。考えた。一つのことに思い当たった。可能性を否定することはできないということがそれだ。生きている限り常に可能性が付きまとってくる。あり得る未来がある。好転する未来も、暗転する未来も存在すると思った時、本当に駄目だったらその時は、と考えるようになった。それと同じようなことが本書には書かれていて、ふふふと思わず笑ってしまった。自殺は切り札である。もちろん、自殺する勇気なんてないのだけれど。

 

 ということで、面白かったです。ペシミストであれ。インパクトあるタイトルですけれど、漠然と「生きるのしんどいのよな…」と思う人は読んでみるといいかもしれないです。「最強のペシミスト」という副題が、読み終わるとめちゃめちゃ効いてくることに気づきます。ペシミストであったからこそ…。

 一番面白かったのは、冒頭の「怠惰と疲労」の章でした。怠惰であれ!VIVA 怠惰!

恩田陸『黄昏の百合の骨』感想

 恩田陸さんの『黄昏の百合の骨』を読みました。

黄昏の百合の骨 (講談社文庫)

 

 中学校か、恩田陸作品に出会ったのは。以来ずっと著作を読んできた作家さんで、多分最初は『球形の季節』か『六番目の小夜子』、しかし通称「理瀬シリーズ」に名を連ねるこの本も中学生の時に読んでいるはず。そしてかなり強く衝撃を受けた記憶がある。例えば、水野理瀬という少女が、そう、百合の花弁がパッと開くように「女」という生き物に変貌する瞬間が描かれているところとか。理瀬は高校生なわけで、当時の自分と大して年齢が変わらないはずなのに、ずっと聡明でずっと大人っぽいのだ。驚いたな。

 そしてネタバレにはなるけれど、地下室の描写も怖かった記憶がある。私はもっとどろどろしたものをイメージしていたのだけれど、どちらかと言えば研究室っぽい。やはり記憶というものは信用できないらしい。おどろおどろしい雰囲気がやや誇張されて記憶として残っていたみたいだ。

 ということで、恩田作品は今まで何度も読み返してきたのだけれど、この本に関しては読み返したことがなかった。怖かったので。それを、まるでパンドラの箱を開ける勢いで読んでみたのは、やっぱり時々恩田陸の文体が恋しくなるからだ。そして私はあまりに定期的に読み返しているものだから、手元にある作品は少々新鮮味が薄れて読みたくないのだ。白羽の矢が『黄昏の百合の骨』にささった。

 

 面白かったです。「この人は何者なのだろう」とか「どうなっているのだろう」とか、終始うっすらとした謎の霧が立ち込めているのだけれど、それ以上に誰かが理瀬を監視しているかもしれない?という抑圧された雰囲気がたまらなく息苦しかった。これは理瀬の今後を考えるとよほどのスタミナがないと耐えられないなと思います。

 物語は終盤、とっても大事なところ、近所の同級生、脇坂朋子が喋るところ、私は結構頷くところがありました。

 

雅雪も、慎二も、すっかり丸め込んじゃって。涼しい顔して、二人ともすっかりたらし込んで、何よ。おまけに、亘さんまで。嫌らしい。血が繋がっているくせに―――親戚のくせに。同じ家に住んで。嫌らしい、みんな。魔女だらけの家だわ。(p.347)

  そんなこと言われたって、という内容。自分に関係があることだと人間、簡単に嫉妬してしまうもので。恩田作品にあるあるな、出てくる人物超優秀の法則がこの本でもきちんと成立していて、稔も亘も理瀬も「出来る」人たちであることは間違いない。出来る人たちが当然のように、自然に出来ることをやっているだけなのに、出来ない人たちは、持たざる者は、それが羨ましくて仕方がない。理瀬の自己評価と他者の評価が微妙に異なるというか、同じものを見ているのに立場で映り方が異なる面白い場面だなと思いました。

 『麦の海に浮かぶ果実』に次いで、理瀬はまた命を狙われたわけですが、この先彼女が生き残ることができるのか見てみたいです。先にも書いた通り、並みの精神力では耐えられないし、容易に殺されてしまいそう。花開いた理瀬の物語が書かれたらまず読みたいです。

町屋良平『ショパンゾンビ・コンテスタント』感想

 町屋良平さんの『ショパンゾンビ・コンテスタント』を読みました。

ショパンゾンビ・コンテスタント

 

 町屋さんは初めましての作家さんです。

 不思議な小説でした。この小説を読んで、主人公のように小説を書きたくなりました。深夜のファミレスはどうして魅力的に見えるのでしょう。不思議。

 面白いと思ったところは、ところどころ漢字の変換。敢えて平仮名にされているのか、それが町屋さんの文体なのか、判断がつかないところがありますが、言葉というのも単なる音だし、そもそも私たちはテキストで会話しているわけではなく、耳に飛び込んできた音から意味を紡ぎ出しコミュニケーションをしているのだから、なんというか、小説というのは不思議だなと思います。うまく言い表すことができないのですが、文字でもって心情や風景を表現しようとしている点が。

 どこにも着地しない。人生の一地点から別の地点の流れを見させてもらった気がしていて、そういう雰囲気が好きだと感じました。町屋さんの他の著作読んでみようと思います。 

若菜晃子『街と山のあいだ』感想

 若菜晃子さんの『街と山のあいだ』を読みました。

街と山のあいだ

 

 山をめぐる静かなエッセイ集です。淡々と綴られる山の出来事。そのエピソードの充実さに驚いてしまいました。

 山を登ることというのはとても内省的な行為なのだなあと思いました。内省的、でありたい。どこかに行くのが躊躇われるご時世である為、余計にどこかに行きたくなりました。

アガサ・クリスティー『ABC殺人事件』感想

 アガサ・クリスティーの『ABC殺人事件』を読みました。

ABC殺人事件 (クリスティー文庫)

 

 殺人というのはつくづく面倒な行いだと思う。

 

 以前森博嗣のVシリーズの一作を読んでいたとき、面白いと思う台詞があった。

 Vシリーズは没落した旧家の令嬢・瀬在丸紅子を主人公とするシリーズで、私はこの瀬在丸紅子という人物が結構好きで。多分彼女の言葉だと思うが、こんなものがあった。「殺したいか、それとも、消したいか。殺人の動機は、この二種類しかない。」なるほど、と思う。確かにそうだ。前者は殺すプロセスも目的の一つであり、後者は殺すことはあくまで手段。

 『ABC殺人事件』は、殺したいのか、消したいのか、どちらだろう?ABCの順番に人を殺していくなんて、規則性という意味ではある種美しいと思うけれど、実際は通常の殺人よりも面倒くさいこと極まりない。アサイさん(仮)の次は、ウドさん(仮)でもエマさん(仮)でもオバナさん(仮)でも駄目なのだ。イトウさん(仮)でなければならない。美しさと面倒くささを天秤にかけたときに、殺したい場合は前者が後者に勝つということを意味するのであり、殺人者ABCはそういう人物なのだろうか?

 

 個人的に面白かったのは、ABCの順番に人を殺めていくなんて犯人は常軌を逸した極悪非道な人間だ!と喚きつつ、途中までそのゲーム盤の上で動かざるを得ないポアロ側警察の無力さだ。アルファベット順で殺すということに嫌悪を感じつつ、それをあてにしないといけない。次はCだ。Cは誰だ?Dは誰だ?滑稽に見えても仕方がないし、蓋を開けてみると、AもBもD(?)もコース料理で言うメインディッシュにはあたらないなんてひどい結末。人を愚弄しているにもほどがあるなぁという点で、この『ABC殺人事件』は見事なストーリーもさることながら、今のところ私が読んだクリスティー作品で一番残酷で最低な犯人だなと思う。さらには、まったく無関係な一人の人間の人生を、ある意味、死より残酷、生きながらの地獄に叩き落そうとしているものだから…。

 ということで、もうこの際無邪気にABC順に殺してみたかったんです、と言ってもらった方がよほどすっきりする(しかし亡くなった数は変わらんのですが)嫌な犯人だった。面白かった。

テッド・チャン『息吹』感想

 テッド・チャン『息吹』を読みました。

息吹

 

 SFというのはあまり読まない。敬遠している。ただこの本はSFを知らない私でも有名な本だということを知っていたから手に取ってみた。さてどうだったか。

 難しかった。SFというのは、哲学的問いを投げかけてくるジャンルなのだなと思った。なんというか、未来の昔話、という感じ。現代でも受け継がれている昔話の中には教訓的な啓蒙的な性質を帯びるものも多いと思っていて、SFは未来の、ありえない設定を使った昔話っぽい。でも昔話ではない。別に人々を正しい知識に導きたいわけじゃなくて「これってどうですか?」「こんなこともありますよね?」という問いかけをしてくるのだ。その辺りが私は難しいと感じてしまった。「そんなこと言われてもわからんのですよー」という風に。

 印象的だった話がいくつかあるが中でも最後の『不安は自由のめまい』はこの短編集の最後であるがゆえに印象もひときわ強い。

 プリズムという機械が発明された世界。「平行未来を知ることができたら」という仮定を元に展開されていく物語。そこで「知ることなんてできないじゃないですか」とちゃぶ台をひっくり返してはいけないのだ。SF、我慢し喜んで相手の話に乗らねばならない。私だったら興味はないと思う。平行未来を知ったところで、この世界の私で生きていくしかないのだから。以上、終了。物語が広がりません。

 

 もう少しSFを知りたくなったので、テッド・チャンの別の作品も読んでみることにした。2021年、SFの年になるか。

千早茜『透明な夜の香り』感想

 千早茜さんの『透明な夜の香り』を読みました。

透明な夜の香り (集英社文芸単行本)

 

 千早さんの本を昨年らへんから読みだしたと思う。毎回取り上げる設定そのものが興味深いのもさるところながら、食べることを大切にしているところに嬉しさを感じる。私は食べることが好きだから。

 この小説はどんなだった?と聞かれたとき、答えるのが少し難しい。自分の中で言語化できていないと感じるのだ。一歩踏み出す作品だと思う。千早さんの著作は主人公が新たな世界へ、踏み出す過程を描くものが多いと思う。

 それとは別に私は「僥倖」について考える。「予想もしなかった幸運」を「僥倖」と呼ぶ。私にも僥倖が訪れないかなぁとか思っている。そう言っているやつにはいつまで経ってもやってこないというのは古来からの教え。

 主人公の一香は書店員の仕事をとある事情で離れ引きこもりに近い生活の中「たまたま」オーダーメイドの香水を作る朔の求人を知る。それは僥倖。朔に選ばれるのも僥倖だと思う。「すまし顔だけど、あんためちゃめちゃ幸運だよ」とか毒づく私がいて、情けなく少し面白かった。でもそれは別に一香に非があることじゃない。ただ私が自分が持っているものに無自覚な人間が、時々腹立つだけ。

 一香の自分に対する無頓着さ、欲のなさに苛々してしまった。でも朔さんのレシピがあるとは言え、見事な手料理を毎日振舞うところ(もうそりゃあ憎らしいほど当然に作ってみせるのだ)自然を見つめる眼差しが好きでした。最初の大家さんの薔薇のシーンで、この人が見る世界は寂しいけれどすごく瑞々しいと思った。