8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

白岩玄、山崎ナオコーラ『ミルクとコロナ』感想

 白岩玄山崎ナオコーラ『ミルクとコロナ』を読みました。

ミルクとコロナ

 

 図書館の本棚に並べられた背表紙を眺めていたら気になったので読んでみた。

 作家同期の白岩さんと山崎さんの往復エッセイ。こういう往復形式の書簡なり小説なりエッセイなりは、お互いがお互いに影響し影響されていく様がわかって読んでいて面白い。会話におけるずれの妙も味わえる。私たちは日常的な会話でも日々ずれてずれながらどこかに運ばれていく。

 お二人と親でもある為、話題は育児となる。子を育てるなかで見えてくる様々な景色、面白く読んだ。「なるほど確かにそうかもしれない」という発見や驚きが多かったので、往復エッセイの途中で新型コロナウイルスの流行が始まってから話題が「新型コロナウイルスの流行における育児」になってしまったのが少し寂しかった。新型コロナウイルスという要素が邪魔だと思ってしまったのだ。しかし、もう私たちの社会は新型コロナウイルス流行以後の世界線に移動してしまっている。新型コロナウイルスが流行する前の世界には戻れない。わかっているのだが、心情としては「もっとその話聞かせて?」というものがコロナ以前のパートでたくさんあった、ということだ。

 親になるということはどういうことなのだろうな、ということは考えた。そればかりは親にならないとわからないだろうけれど。

 また違和感を言葉にするのも難しいと感じた。「そういうものだから」に流されず、違和感とは向き合って個人の生活レベルで差別とか理不尽に組しないようにしなければならない。

ばったん『姉の友人』感想

ばったん『姉の友人』を読みました。

姉の友人 (トーチコミックス)

 

※ネタバレ?あるかもしれないから注意してください

 

 

いつぞやから気になっていて、気になったことを忘れること何回目、ようやく買って読んだ。端的に言って、描かれてる人間の線が好きだ。

決定的な瞬間が決定的に描かれていると思った。その決定的な瞬間には説得力があり、その場面に差し掛かるとからだに痺れが走った。その美しさたるや。ガラスをぱきりと靴で踏みつけたときの感覚に似てる。何かが壊れる感覚。ひび割れる感触。

様々な観点でこの作品を見ることができるかと思うけれど、私はなかでも「持ち物」が気になった。

るり子は、姉の友人である今日子から色々なものをもらう。口紅とか香水とかイヤリングとか。今日子の部屋をあとにするときにもらう小さなプレゼント。

これは読むとわかることだけれど、今日子は自身の持ち物の境界というのが曖昧な人であるようだ。自分の持ち物を相手にあげること、逆に相手の持ち物をもらうこと、何かを買うこと、端々に描かれる今日子とモノの関係に「おや?」と違和感を抱いてしまうぐらいには不自然だ。

持ち物の境界が曖昧であること、私ならありえないなと思う。逆に私は自分の持ち物に対して愛着がありすぎるのかもしれないけれど、他人が自分の持ち物を勝手に取っていったり使ったりしようものなら絶交だ(絶交は言い過ぎ、嘘です。でも普通に怒る)。

私は「選ぶ」ということに矜持を抱いているのだと思う。何かを買うことは何かを選ぶことと同義。何かを選ぶということは自分の願望を把握することと一緒。自分が何を望んでいるのかをわかっていることと同じだと思っている。まあ、私がどれほど自分の望みを理解しているかは怪しいところもあるが、少なくとも何かを選ぶときはとても真剣に選ぶ。そう考えると、今日子とモノの不安定な関係が示唆することはなんとなくわかるような気がする。今日子と彼女の望みとの距離間に注目しながら読むと面白いのではなかろうか。るり子もるり子の姉のナツ(本名がわからないのでナツにしておく。なつ子かもしれない)もモノとの付き合い方は正しく、口紅で己を彩ることの楽しさを知っているように見えるのが今日子の対比として良い感じだ。

と、「今日子はモノとの付き合い方が不安定だ」みたいな趣旨でここまで書いてきたけども、彼女は作中にこんなことを言っている。

あたしがいちばんきらいなのは

いちばん欲しいものが手に入らない

あたし自身だ

ふむ。むむむ。

今日子さんごめんなさい、という気分になってきた。欲しいものが手に入らないという感覚か。私は普段どうやってこの欲しいものが手に入らないことに付随する感情を消化しているのだろうと考えてみたけれど実のところよくわからなかった。飽きるか忘れてしまうのか諦めるか。そう、忘れられないくらい欲しいものが手に入らないのだ、と今日子は思っているのだ。それはしんどいな。

先ほどの私の「選ぶ」論に紐づけて恋と愛の違いを語るなら、恋は選べないものなのかもしれないなとふと思った。受動的に翻弄されるもの。愛はもっと実践的で能動的なもの。そういう意味では、今日子の中の感情が恋から愛に変わる過程が描かれてるのかなあなんてことを考えて、これにて感想はおしまい。

山崎ナオコーラ『かわいい夫』感想

 山崎ナオコーラ『かわいい夫』を読みました、嘘、読んでいる途中です。(その後読み終わりました。)

かわいい夫

 

 私は普段このブログの記事を書くとき、構成をまったく考えていない。だから今この文章を書き始めているけれど、書く内容は無計画出発だ。今、私は『かわいい夫』を読んでいる最中なので読み終わったら改めて「読み終わりました」という体裁で感想を書くと思ったけど、もういいか。これで投稿します。面白そう。

 イレギュラーなのも理由がある。それは書きたいからだ。今、脳みそがまさにドライブしている感覚でそのまま書きたいという欲求に従って私はタイピングしている。わあわあ。

 何を書きたいのかというと、誰かとの関係性について考えるとき、私は「死にたくなる」ということだった。おっと、仰々しい言葉だ。「」つきの「死にたくなる」ね。(あ、でも、楽しいのでいいのですが…)

 これはつまり、誰かとの関係性について考えることは「私にとって刺激が強すぎて脳が破裂しそう」ということなのだけど(なんか一人で色々考えて、結果「死にたくなる」)この『かわいい夫』では、著者の山崎さんとその夫さんとの関係性を丁寧に丁寧に言語化していく。私の「死にたくなる」とは全く対照的だ、と思う。山崎さんの言語化能力つくづくすごいなあと感じる(他のエッセイも読みたい)。山崎さんなりの論理によって支えられた文章は、「なるほど」と思うことがあればピンとこないこともあるけれど、それでいいと思う。私はこの本を読みながら色々考える。抽象的な「やばいしんどいかも」を、言葉という道具を使って分解していく感覚。私たちには言葉があるのだという心強さもある。まあ、誰もが言葉の強さのようなものを信頼しているわけでもないし、逆に言葉をうっとうしがることもあるだろうが…。

 うだうだ考えることが好きなのもあって、私はできるだけ言語化したいのかもしれない。それってどうなの、どういう意味なの? 確認しないと気が済まないし、私も自分の考えていることを言える範囲で言いたい(だからこんなブログをやっている)。

 でもそれが誰に対してもできるかというとそんなことはなくて(だからブログをしている)むしろ世の中には考えることが好きではなかったり面倒だったりする人もいる。わかる。考えるペースは人それぞれで、それは尊重されるべきもので、それもあって私はおそらく「死にたくなる」のだろう。頭が破裂しそうという感覚は、内に蠢く感情が言語化できない、言語化しづらいということと、その感情に思いっきり身を委ねられないことのジレンマゆえ、という気もする。この「何を言うか」の調節って、とても大変だし負荷がかかる。が、仕方ないことなのだろう。

 私の関係性構築下手の話はさておき、『かわいい夫』の中に、私は「言葉にする」という雰囲気を感じて、それが羨ましいなと感じた。素直に言葉にするって難しい。その難しさに私は一生勝負を挑み続ける気がしてならない。

 山崎さんは夫のことを「かわいい」という。本心でそう思っているからだ。でも夫さんのことを「かわいい」と表現するのは、世の中的にはおそらくまだメジャーではない。男らしさ、女らしさ、母親らしさ、父親らしさの呪いのようなものはまだまだこの世には蔓延っていて、それらは解体できるものであることがこのエッセイでは示唆されている。もちろん解体したくない人はしなくていいけれど、既存の「らしさ」に悩み、それゆえに生きることがしんどいのならどんどん解体していっていいと思う。

恩田陸『蒲公英草紙 常野物語』感想

 恩田陸『蒲公英草紙 常野物語』を読みました。

蒲公英草紙 常野物語 (集英社文庫)

 

 恩田陸の作品はかなり読んできたと自負しているけれど、この期に及んでまだ読んでいない作品があることを嬉しく思う。今回は常野物語シリーズより『蒲公英草紙 常野物語』を。

 恩田作品を読んでて思うけれど、本当にたくさんの聡明な人間が登場するなあと思う。これはもう「恩田カラー」だと言っていいだろう。著作全体を通して綺麗な話が多い。だから私は恩田作品を好んで読むのだろうという自己分析である(その自己分析は同時に私にとって恥ずかしいものであるが、まあ、言わなくてもばれるだろうからいいや)。恩田作品特有のクリーンさをわかっている人がいたとして、それを忌避する人がいるならそれはどういう人だろう、とふと考える。ちょっとお話してみたい。

 常野一族のような穏やかで謙虚で慎ましく生きる人が表の世界を動かすわけではないというところが、残酷だけれど本当らしいと思った。ウクライナ侵攻も起きているわけだし。同じく常野物語シリーズの『エンド・ゲーム』を思いだした。あの作品に通底しているのは、勝ち目のない戦いに対する圧倒的絶望感であった。そう、常野物語は「敗者」の物語なのかもしれない。敗者には敗者なりの生き方があり、矜持があり、幸せがある。たぶんそういうことなのだろう。

 そもそもゲーム設定は常野一族が主導したものではなく、常野一族以外の人々が勝手に作ったゲームというだけのことであり、ゲーム盤というのは、ルールを守らなければただの盤であるような気もする。つまり何が言いたいのかというと、とりあえず死なないように生き延びて、ゲーム盤が諦めてくれたり壊れたりするのを待つことなのかもしれない。そんなことを考えていた。ゆったり読めるけど、ゆったりの中にピリリとしたスパイスが効いている、気がする。

角田光代『口紅のとき』感想

 角田光代『口紅のとき』を読みました。

口紅のとき

 

 使わないけれど化粧品を眺めるのは好きだ。美を彩るものだからか、化粧品のパッケージはどれも可愛い。モノとして「キュン」となる感覚がある。

 口紅も同様で、ああ、私も一本や二本持ち歩けばいいのに…と思うのだけれど、持ち歩かない。いや、持ち歩けない。

 考えないようにしているから普段そこまで意識にあがってこないけれど、化粧の問題というのはもしかしたら奥深いのかもしれない。いわゆる「女性らしい出で立ち」が苦手なことと「化粧ができない」ことは同じ位相にある。化粧が苦手な理由は枚挙にいとまがないが、ここでは割愛しよう。化粧をした方がいいのはわかるし、おとなしく化粧した方が色々楽なのもわかるけれど、気が進まないな。

 

 人生の節々で描かれる口紅のとき。確かに、人が口紅をひくときの不気味さというのはあると思う。電車で化粧をする人を見かけることがあるが、その人の目に我々乗客は映っていないし存在もしていなくて、そこにあるのは、装った自分と装った自分が会う人だけなのだろう。違う世界を生きている。家の鏡台であれば、その前に座る母はいつもと違う人になる。

 口紅で思い出すのはドラマ『相棒』の「蟷螂たちの幸福」である。私はこのエピソードが好きで、このドラマで自分の万年筆を胸ポケットからスッと抜いて作家に差しだす杉下右京を見て「将来私も万年筆を買うぞ~」と思った思い出がある。

 それはさておき物語終盤、毅然とした様子で唇に紅を引く蓬城静流(演:荻野目慶子)がめちゃめちゃ印象に残ってて綺麗なのだ。こういう口紅ならいいな、とも思った気がする。要は化粧というのは表面的な意味(あ、あの人は化粧をしているという事実)の奥に、人それぞれの物語があるよねということで、それこそ『口紅のとき』という小説が描いているものなのだろうけれど、どうも表象としては「あの人化粧している」ということに集約されがちだ。人間わかりやすくものを捉える傾向にあるのか。小説というのは「一般化」に抗う手段だよな、ということも考えていた。小説を読んでいて「私とは違うから間違っている」なんて感想はありえない。そういう、小説を読むときの前提が私は好きだ。

宮沢賢治『注文の多い料理店』感想

 宮沢賢治注文の多い料理店』を読みました。

注文の多い料理店 (ハルキ文庫 み 1-4 280円文庫)

 

 思えば宮沢賢治を意識的に読んだことがないかもしれない。国語の教科書で「やまなし」は読んだと思ったけれど、私の中の宮沢賢治はそこで止まっている。最近また本が読めなくなってきたので、リハビリとして薄い本を選んでいる。角川春樹事務所の文庫280円シリーズの『注文の多い料理店』もそこまでページ数が多くない。読んでみた。

 

注文の多い料理店

 話としてかなり面白いと思う。だがいかんせんネタが割れすぎてて見知ったストーリーをなぞる形で読まざるを得ないのが寂しいといえば寂しい。この話のネタを知らないまま読みたかった。

 注文の多い料理店を訪れた二人の紳士は「なんだか横柄でいけ好かない奴」だなと思ったけど、多分横柄だろうが謙虚だろうが、ある程度肉付きのいい人間だったら大歓迎だろうなこの店と思うと、自然にとって人間の本性なんてのはそこまで差はないのかもしれないと思った。

 宮沢賢治はことばが面白い。なにかたべたいなあ、と、喰べたいもんだなあ、というやり取りに私は驚いた。食べる意思の交感をそういう風に表現するんだ?

 

セロ弾きのゴーシュ

 楽団の中でもかなり下手な演奏家だったゴーシュが、動物たちとの関わりの中で知らぬ間に演奏技術を向上させる、という話か。

 嫌味を言われても、特段気にすることなく(という風に私は読めた)家で練習するゴーシュはセロに愛されていたと思う。誰に言われなくても自然と体が動くことを私は才能と呼ぶ。だからゴーシュにはセロの才能があった。あと自分の音にも無頓着というか、結局なんで上達したかわかってなさそうなところが最後までゴーシュという男で、演奏家としてただただわからない、異様な存在だなと思った。

 

風の又三郎

 会話パートの豊かさに驚く。現代の言葉で生きている私としては読みづらさを感じる部分ではあるが、ノリで読む。その生き生きとした佇まいに身を委ねる。

 

 三作品共通して、わからないもののわからなさを、誇張することなく、さらりと書くところがあるような気がした。他の作品も気が向けば読んでみたい。

江國香織『神様のボート』感想

 江國香織の『神様のボート』を読みました。

神様のボート (新潮文庫)

 

 「好きな作家は」という質問は私を恐怖させるけれど、「○○という作家の好きなところは」という質問なら意気揚々と答えてしまうかもしれない。

 恩田陸江國香織で共通している好きなところは「だらだら読める」ということである。

 結末なんて正直どうでもいい。そういうスタンスで読む小説は果たして「正しい」読み方だろうかと思わなくもないけれど、はあ?正しいって、何?と私は思うので、小説をだらだら読むというのはこの上ない至福だと認めてしまおう。恩田陸江國香織も、読んでいるこの瞬間がたのしい作家だと思う。それは単に作家と読み手の相性だと思うけど。

 

 『神様のボート』という小説もだらだらしている。葉子と草子の母娘、旅がらすの二人が町々を点々とする話だ。一つの町に住む期間としては大体2年くらいか。葉子曰く「神様のボートに乗ってしまったから」とのこと(ここら辺の話はぜひ作品を読んで正確に掴んでいただきたい。一言で説明するのは難しいのだ)。さて、どうなる、このままだらだらするのか? と思っていたら、終盤になり物語のスピードが一気に加速するのでそこも読みどころ。それまでが、葉子と草子のゆったりと穏やかな暮らしが描かれていた分、ギアが上がってからのスピード感は痺れるものがある。終盤まで読めば、そこからは一気読み間違いなしである。

 江國香織作品特有の感性が好きである。瑞々しい感じがするのである。ああ、そうだよなあ、世界というのはこういう綺麗さを帯びているものだよなあ、と再認識させてくれる。だから、だらだらと読みながら、私は元気になっていく(もちろん作品にもよる。なぜなら江國作品の中には当然シリアスな話もあるからだ。『神様のボート』のシリアス度は星1.5くらい)。作中に登場する町に行ってみたいなという気分になった。