8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

恩田陸『黒と茶の幻想』感想

 恩田陸黒と茶の幻想』を読みました。

黒と茶の幻想 (上) (講談社文庫)

 

 記録に残す限り4回ほど読んでいました(今回で5回目)、好きとか嫌いとかではなく、ただただ定期的に読む本『黒と茶の幻想』です。

 繰り返し何度も読む本の醍醐味として、書かれている本の内容は変わらないのに読み手が変わるとそれによって感想も当然ちがってきますよね? というのがあると思っています。

 『黒と茶の幻想』は、大学生時代の気の置けない友人4人組が、40歳を目前に、Y島(屋久島をイメージしてもらえればわかりやすい)を旅するその行程を書いた話です。

 4章で構成され、利枝子、彰彦、蒔生、節子の順番で一章ずつ語りが変わります。それぞれの章で独立して読むこともできつつ『黒と茶の幻想』という一本の話の中でそれぞれ起承転結の役割を担っている気がします。この4人の中には大なり小なり様々な謎があり、中でも大きな謎の中心にいるのは蒔生なので「それでは彼が最終章なのでは?」と最初の頃は思っていたのですが、やっぱり最終章は節子でなければ駄目なんだよなということをひしひしと感じています。

 今回印象的だったのは、利枝子という人物に対する印象が若干変わったこと。彼女はとても理性的で自立しており「男っぽい考え方をする」と評される女性。同時に高校時代から続く大恋愛をまだまだ引きずっていて、物語上は一旦落ち着くところに落ち着くけれどもそれは単なる区切りであり(むしろY島の旅は彼女自身がその大恋愛を整理する為に必要な時間だった)これからもきっと生涯何らかの形で恋愛は続くのだろう、という終わり方になります。

 利枝子の揺らぎは―作中だと「脆さ」と形容されることもある―不安定で、今までは着目していなかったポイントです。今回は読んでてかなり気になりました。そう、恩田陸は様々なジャンルの物語を書く作家ですが、『黒と茶の幻想』は、その著作の中でもかなり恋愛というものに迫った作品なのだなあ…と、5回目の読書にして実感しました。

 この作品、私は中学か高校のときには読んでいて、中でも蒔生という登場人物は当時から強く心に残っています。作中の正確な表現ではないですが節子曰く「大事な線がいくつか断線している人間」とのこと。いいなあ、そういうのと、当時思っていた記憶があります。ぜひ「辻蒔生」論として誰かと熱く語ってみたいところです。この本を読む人、蒔生についてどう思いますか? まあ、なかなか実生活でこの本を読んだよ! という人間に出会えない(そもそも読書を趣味にしている人がいたとして、読む本のジャンルが重なることって奇跡に近いことだと思うのですよね)。

 ちなみに私は、中高生時代に「私は辻蒔生ではないが、辻蒔生的な要素は多分にある」という自己分析をしていて、その結果についてはこの年になっても保留のままです。断線している大事な線がないといいな…いや、あってもいいか。それで生きていけるのなら。私は蒔生の章は結構頷くところがあったりします(もちろん首肯できかねるところもあります。でも私がどれだけNoと思っても物語は変わらないのですよね)。みなさんはどうでしょう? 

江國香織『落下する夕方』感想

 江國香織落下する夕方』を読みました。

落下する夕方 (角川文庫)

 

梨果と八年一緒だった健吾が家を出た。それと入れかわるように押しかけてきた健吾の新しい恋人・華子と暮らすはめになった梨果は、彼女の不思議な魅力に取りつかれていく。逃げることも、攻めることもできない寄妙な三角関係。そして愛しきることも、憎みきることもできないひとたち…。永遠に続く日常を温かで切ない感性が描いた、恋愛小説の新しい波。

 なんだろう、江國香織作品のあらすじだけ読むとそこまで面白そうには思えないのだけれど、実際読んでみるとそれはもう抜群に面白い、ということがある。この『落下する夕方』も同様で「はあ、面白くないじゃろ」と思っていたけれど、読むとたちまち物語の世界に引き込まれた。もはや江國香織の文章が好きだと言ってもいいだろう。私はこの人の表現が好きなのである。

 主人公である梨果の人物像を立ち上げるのが難しかったように思う。本を読む際は登場物たちの輪郭はある程度固められるのだけど、梨果については最後まで本当によくわからなかった。どんな容姿をしているのかも想像つかなかったし、どういうことを大切にしているのかもわからなかった。多分、彼女自身がよくわかってなかったから、それが語りにも出ているのだろう。おそらくは、だけど。

 輪郭が曖昧だったものだから梨果の視点で進められる物語は当然のように不安定だった。話の筋とは関係なしに、今この瞬間を読んでいてこんなに不安になる小説もない気がする。ずっとふわふわしてて落ち着かなかった。

 そして梨果の恋人である健吾が思い寄せる華子。この小説はとにかく梨果と華子、華子と梨果、時々健吾、である。華子もよくわからない人物だったけれど、よくわからないというところで輪郭を引けるからわからなくても不安にはならなかったように思う。作中に登場する華子の数少ない持ち物のひとつ、ヘチマコロンは知らなかったので検索してしまった。ヘチマコロンの匂いとはどういうものなのだろう。

 買った本だから、読みながら気になる文章に付箋を一枚、また一枚を貼っていく。例えばこんなの。

「『好意を注ぐのは勝手だけれど、そちらの都合で注いでおいて、植木の水やりみたいに期待されても困るの』」(江國香織落下する夕方』p.145)

 言葉がきれっきれである。どうしたらこんな文章を紡げるのか。まあ、紡ぎたいのかというとわからないけど。

 読み終えたときに、つけた付箋を目印にもう一度文を読む。「あれ、どうしてここ付箋貼ったのだろう」と首をかしげる瞬間が、私は結構好きだったりする。

恩田陸『灰の劇場』感想(二回目)

 恩田陸『灰の劇場』を再読しました。

灰の劇場

 

 読むのは2回目か3回目かぐらい。

大学の同級生の二人の女性は一緒に住み、そして、一緒に飛び降りた――。
いま、「三面記事」から「物語」がはじまる。
きっかけは「私」が小説家としてデビューした頃に遡る。それは、ごくごく短い記事だった。
一緒に暮らしていた女性二人が橋から飛び降りて、自殺をしたというものである。
様々な「なぜ」が「私」の脳裏を駆け巡る。しかし当時、「私」は記事を切り取っておかなかった。そしてその記事は、「私」の中でずっと「棘」として刺さったままとなっていた。
ある日「私」は、担当編集者から一枚のプリントを渡される。「見つかりました」――彼が差し出してきたのは、一九九四年九月二十五日(朝刊)の新聞記事のコピー。ずっと記憶の中にだけあった記事……記号の二人。
次第に「私の日常」は、二人の女性の「人生」に侵食されていく。
新たなる恩田陸ワールド、開幕!

河出書房新社. https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309029429/

 

 0と(1)と1という異なる3つの視点で構成されている作品です。この違いを押さえるのが初読みの際は苦労した記憶があります。書かれたもの、書き始めようとしている者、書かれたものが舞台化される者。書かれたものが舞台化される者という視点を入れたのがユニークなところではないかと考えています。ここで改めて立ち止まることで「私は何故彼女たちを書いたのだろうか。それはどういうことだったのか」という内省が生まれ物語に奥行きをもたらしています。

 最初に読んだときは、書かれたものパートがとにかく印象深く、大学の同級生である二人の女性が出会ったときの回想から、やがて訪れる「その日」までの描写は、いずれも共感を抱かざるを得ない。足元からせり上がってくる諦念に息が苦しくなりました。一番好きなのは、TがMの部屋に忍び込んで化粧品を見つけるところでしょうか? 在宅ワークで家に閉じこもり、世間とは没干渉のTに対して、会社勤めのMに訪れた一時のロマンス、恋がMを変え、Tは最新の化粧品を見ながらMへの恨みつらみを募らせていく、という場面。人が人に嫉妬するというありふれた現象も、やっぱり書き起こしてみれば怖いものよね、となりました。相手の呪うようになったら物理的に離れた方がいいと思うけどな~というのが、この場面に差し掛かった時の感想で、TとMは離れるタイミングがいくつかあったけれどそれを逃してしまったというのも読んでいてわかります。そう考えると怖いもので、こうして読んでいれば「ああ、あのときが分岐だったのね」と振り返ることができるけれど、人生は不可逆であり時の流れは一時停止しませんから、一つひとつの分岐を検証するのは意味があるけれど、それは来たる次の分岐に備えてのことだよな…。

 最初印象に残ったのはTとM、二人の女性の生活模様でしたが、3回目になると、それを書く者の視点が気になってきます。自ら川に飛び込んだ女性を書くというのはどういうことだったのか。彼女たちは何者だったのか。それを舞台化するというのはどういうことか。書くときと舞台では何が違うのか。同じ事象(二人の女性がある日共に川に身を投げた)を何回も何層にわたって考えていくのが『灰の劇場』の構造なのでした。様々な示唆に富んでいる作品という気配はするけれど、まだまだ掴み切れていない感じがします。歯がゆい。

 一つ考えていたのは、記号と具象化の往復作業を読んでいるのだろうということでした。舞台に近づけば近づくほど具体性は剝ぎ棄てられ記号化していく、書かれたもの二近づけば近づくほど具体的な生々しい肉を付与されていく。このチューニング作業はできる必要があるし意識して使いこなす必要があるよな…ということだったり、とはいえ、実際の出来事を語ることはできないのだとか(当事者ではないから)。いや当事者であっても、それは一つの真実でしかなく、人間が語る以上「物語」が含まれるよな?とか。

 読みながら色々なことを考えた作品でした。スルメみたいな作品です。

高浜虚子『俳句の作りよう』感想

 高浜虚子の『俳句の作りよう』を読みました。

俳句の作りよう (角川ソフィア文庫)

 

 俳句についての本です。読みやすい文体で、俳句をやろうと思っている人は必読の書では? と思う内容。何が入門であるかはその領域である程度経験がないとわからないものだとは思いますので、あと10年くらい俳句を続けることができたら改めて再評価します。

 そう、俳句。表現の手法を広げようと思っていて、詩も短歌も小説も写真も絵も粘土も(粘土はリハビリの要素が大きい)やってみたいからどれもやるつもりだけど(あとは音楽!)短歌より俳句の方が性に合っている気がする。そもそも短歌と俳句は性質が異なるので比較しにくいけど、それでも言うのであれば短歌って長く感じる。長くないですか。

 俳句のどんなところが気に入っているかというと、とにかく、観察観察観察観察広がり観察観察広がり、というところです。やっぱり何で表現しようにも、対象に対する丁寧で静かな観察が必要なのだろうと思います。あとは「語りすぎない」というところも好きです。私たちは日常で喋りすぎなのですよ(これは愚痴ですが)。それは同時に喋らなすぎということでもありますが、俳句は大事なことを大切に詠むという感じがして好きです。落ち着く。

 ということで、高浜虚子先生の教えを咀嚼しながら俳句を作れたらいいですね、私。

新装版『亡命ロシア料理』感想

 ピョートル・ワイリ、アレクサンドル・ゲニスの『新装版 亡命ロシア料理』を読みました。

亡命ロシア料理

 

 完全にタイトルとジャケット買いです。2020年くらいに買っていたのですが積読状態でした(何故買った時期がわかるのかって、私は本を買ったときはレシートをページのあいだに挟むのが習慣だからです)。昨今の世界情勢も相まって「これ逃したらいつ読むのよ?」と思って読み始めました。

 積読になっていた理由とも関連しますが、読んだとて内容をまるで覚えていないという感想になります。なんというか、それは面白くなかった、買わなければよかったというわけではなく、単純に文章との相性かと思います。この本の特徴として、料理エッセイであり文明批評でありながら、かなり具体的に調理レシピが記載されています。しかも、普通のテキストで調理手順や材料を語るわけです。頭に入ってこないのです、びっくりするくらいに。食材も亡命ロシア料理独特のもので、日本で生きているとどうもイメージしづらい食材もある。想像しながら読もうにもよくわからないから、空白地帯を歩いているような途方もなさを感じました。それはそれで面白かったですけれど。

 批評については手厳しいです。ロシアとアメリカという二つの大国に挟まれ引き裂かれながら皮肉っぽく懐かしみを交えながら語る望郷の味。豊かな言葉がそこにはあります。それと料理への情熱ですね。

 新装版に際して従来のに追加された訳者あとがきはぜひ読んでほしい。かなり胸に迫ってくる文です。本当に。ウクライナの人々に思い馳せ、またロシアで生きる人々のことも考えます。願うことは無力かもしれないけれど、願わずにはいられない。双方の文化が共存できることを願います。

佐岸左岸『オールドファッションカップケーキ』感想

 佐岸左岸『オールドファッションカップケーキ』を読みました。

オールドファッションカップケーキ (HertZ&CRAFT)

 

 線が綺麗だなと思ったので読んでみました。恋愛漫画は普段は読まないのだけれど、たまには読んでみるかと「月一漫画プロジェクト(月に1冊漫画を読んでみる)」の一環。

 いわゆるBL作品をどういう気持ちで読めばいいのかよくわからないです。BLというジャンルを特別視するつもりはないけれど、それは妥当な判断なのか。どう楽しんでいいのか(そもそも楽しんでいいのか)というところから私にはわからないのです。だから、ただ線が綺麗でパンケーキが楽しそうで、野末さん(髪が茶色でふわふわしている方)の馬鹿野郎と思いながら読んでました。食べるときにもきゅもきゅリスみたいに飯を食ってる外川も可愛かったな。

 私は野末さんのことが嫌いではないけれど、その鈍感さは悪では? と思ってしまったところがあり、自分(私)のことが嫌になってしまったのが面白かった。野末さん、気づけよ!でもそんなに早く気づいたら漫画は10Pくらいで終わってしまうでしょう。人の無知は、無関心は、愚鈍さは、物語を生み出す。

 年齢というのもひとつのキーワードでした。。恋愛という文脈に限らず、40歳になる男がパンケーキ食べるの? みたいなのは考えさせられた。私は一人で二郎系のラーメン食べに行くけどそれは誰の為でもなく私の為に食べるんだよ!それでいいじゃないか、とはすっぱり言い切れない気持ち悪さが残って、ふざけるな、社会の馬鹿野郎が、とか思ったりして感情が忙しない。ジェンダーへの固定概念はまだまだ消えない。「〜らしさ」みたいなものを現時点で私は否定はしないが(基準があることで差異が生まれ、その基準というものに絶対性はない)考えさせられました。外川は野末さんと一緒でなければパンケーキ屋に行かないのかなとは思った。元々外川がそういう「〜らしさ」について柔らかな考えを持っていたのか、「野末さんとだから行く」のかは、ちょっと判断がつかないなあ。どちらでもよろしい。

 日々自分のジェンダーセクシャリティについて考えています。考える度に新しい発見があってそういう機会を得られて良かったな、楽しいなとすら思います(もちろん日々懊悩している人もいるでしょうけど)。だから、当たり前のように恋愛する人にも、もっともっと繊細であってほしいというのは私の勝手な願いで。何故ならいまいちわからないからそれがどんなものなのか教えてほしいのです。この作品は心情の変化や葛藤が丁寧に描かれてると思ったけど、恋愛への解像度は個人に属するものでもうちょっと細かく語ってほしいな、なんてことを考えてしまいました。もっともっと細かく描かれている恋愛作品があれば教えてください。私は読む。

アガサ・クリスティー『鳩のなかの猫』感想

 アガサ・クリスティーの『鳩のなかの猫』を読みました。

鳩のなかの猫 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 ※ネタバレあるかも

 

 

 

 

 

 

 英国でも有数のメドウバンク校にも事件の影は忍び寄っていた。新任の体育教師が何者かに射殺されたのだ。犯人は学内に潜んでいるに違いない・・・・・・そう鳩を狙う猫のように!

 本の裏のあらすじに「名探偵ポアロが挑む」と書かれているのでポアロシリーズなんだ…と思いながら読むと、いつまで経ってもポアロが登場しないことにワクワクさせられます。物語の半分を経過してもポアロは出てきません。今回は事件解決に悪戦苦闘するポアロを楽しむのではなく、メドウバンク校の人々に焦点を当てた物語なんですね。だから、ポアロは形式上の名探偵。ただやってきて、ただ事件を解決してくれる名探偵役です。面白いなあ。

 物語の発端は、中東のとある小国で起こったクーデター。民主的な改革を進める若き国王は自分の命が狙われていることを悟り、友人に自身の宝石を託します。かけがえのない友の希望を受け取り、その友人は宝石を国外から持ち出そうと画策します。さてその宝石の行方をめぐって、英国にある名門女学校のメドウバンク校であれやこれや事件が起こるという話。

 中東の小国は架空の国ラマット。王様はアリー、その友人はボッブ。この二人の出番は悲しいことに冒頭わずかなのですが、とても印象的でした。前の王の恐怖政治から西欧寄りの民主的な治世を、と奮闘しているのに、クーデター起きる寸前という状況。私は今でもこの二人の青年が生きていると思いたいのですが…それは叶わぬことなのでしょうか。

 クリスティー作品には毎度毎度聡明な女性が登場しますが、今作もたくさん登場します。校長のバルストロード、英語と地理の教員であるアイリーン・リッチ、校長の秘書であるアン・シャプランド、生徒のジュリア。

 あまり男がどうだ、女がどうだと言いたくないけれど、クリスティー作品を女が読んである種のカタルシスを得られるのだとすれば、そこには何があるのでしょう(シス女性である私はクリスティーを読んでいて楽しい)。クリスティーは何か問題意識を抱きながらこの作品を含め小説を書いてきたのだろうか。クリスティー作品をこれまで読んできていながら、私はアガサ・クリスティーという作家のことを何も知らない。とりあえず読める作品は読んだうえで、興味があればクリスティーという偉大な作家に迫りたいものですが…。

 女が描く女と男が描く女は違うし、その逆も然り、女が描く男と男が描く男は違う。この考えに私も首肯するところはある。じゃあ性別というのは何なのだろう、みたいなことをうっすらぼんやり考えてしまいます。なお、このくだりは本作品におけるストーリーにはあまり関係ない脱線です。

 また、宝石をめぐって炙り出される価値観の違いについても興味深かったと思います。宝石をとにかくがむしゃらに追いかけまくる軍団がいるかと思えば、宝石を前に目が眩むことなく冷静に行動する人間がいて。個人的には、富を得るということはそれだけの責任と業?というか宿命?みたいなのを負わなければならないと思っていて、本人が意識的かどうかともかく、大変なことだと思うのですよね…どうなんですかね。難しいや。だから「彼女」の選択はとても賢明だったと思います。その「彼女」とは誰だったのか、それは読んでのお楽しみ。