8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

スズキナオ『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』感想

 スズキナオさんの『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』を読みました。

深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと

 

 定期的に書店通いをしていると、気になるものの買っていない本は嫌でも目に入ってきます。この本も私にとってはそういう本でした。たまたま図書館で借りることができたので読みます。

 この本に出てくる発想力や実行することのできる機動力というか行動力は、どのように養えばいいのだろう、と読みながら考えていました。なんというか、この本に出てくる様々な試みは、実行できる人が限られるというものではなく、とても身近なこと。でも私はそれが見えない。思いつかない。実行できない。この違いは何なのだろうと。

 私自身も思いついたことは試しにやってみたり行ってみたり、一人で遊ぶことに限ればフットワーク軽めな方だなと思いますが、いやいや全然負けました(勝負してたの?)。世界が広がりますね。私はどっちかというと、発送豊かなのではなくパターンの収集と真似っ子をするのが好きで得意(まあ、自分の中では、です)なので、スズキさんの様々な試みを模倣してみようと思います。

 ああ、あと、タイトルのインパクトが大きいけれどもこのタイトルはエッセイの1つからとったもので、むしろこのバスの話の方が残りのエッセイと比べると異端なので、タイトル嫌いすることがあるのだとしたら、別のものも読んだ方がいいと思います。

 

 しかし、考え方次第で、なんでもない日々を少しぐらいは楽しいものにすることができるという思いは確信に近い。(p.19)

 

江國香織『つめたいよるに』感想

 江國香織さんの『つめたいよるに』を読みました。

つめたいよるに (新潮文庫)

 どの話も短く不思議な読後感で面白かった。目次をノートに写して(読書ノートをつけたりつけなかったりしている)書いた目次のところに特に好きな短編ならマルをつけていく。『デューク』『ラプンチェルたち』『さくらんぼパイ』『ねぎを刻む』『コスモスの咲く庭』『冬の日、防衛庁にて』らへんが好きです。

 特にお気に入りは『冬の日、防衛庁にて』。防衛庁?なんだか厳めしい。と思ったら今は東京の市ヶ谷にあるけれど、移転前は六本木にあったとか。東京ミッドタウンがある場所にあたるのかしら。そういえば市ヶ谷らへんを散歩したときに、どうにも高い石垣というか塀が連なっているもんだなぁ…と思ったら防衛省の敷地だったという記憶があります。六本木なら確かにイタリア料理のお店はあるでしょう。にしても、防衛庁が入ったタイトルがまた見事。

 『冬の日、防衛庁にて』は不倫相手の女が妻とイタリア料理店で食事する本当に短い話。でも最高です。女のたくましさに胸が打たれる。「あの人には今日の食事会は内緒ね、驚くから」というような妻の台詞に感じる強かさです。

でも私はこの人の敵でさえない。(p.197)

 

イーユン・リー『理由のない場所』感想

 イーユン・リーの『理由のない場所』を読みました。

理由のない場所

 私が定期的に行く書店にずっと数か月は平積みになっていて(それは売れ残りというよりは、その本のセレクトだということを意味している)気になっていた本を図書館で見かけました。嬉しい。いや、買ってもいいのだけれど買う勇気はなかった。でも本当に買ってもよかった。というか何度も読んでいい本だと思う。

 母親と自殺して間もない16歳の息子との会話。物語は母親と息子の対話形式で続き、そこに「」は無い。

 彼女と対話する皮肉屋な息子・ニコライは本当のニコライなのだろうか。それを断定することはできない。母親が作り出したニコライとも呼べるし、しかし、元来人間と言うのは生身の人間と対峙していても己が作り出したその人のイメージを張り合わせながら対峙している、気がする。なので本当かどうかというのは意味がない問いなのかもしれない。

 何か他の人がこの本に寄せた文章を読んで「そうか」と思ったのが、この母親と息子が用いる言葉について。どうやら同じ言語ではあるけれど、母親は他に母語があり後天的に習得したもの、一方息子は母語であり自由に悠々と海を泳いでいけるということらしい。世界という海に投げ込まれたとき、母親が少々ぎこちない泳ぎ方で渡っていくのに対して、彼女を先行してすいすい泳いでいく息子のイメージを思い浮かべてしまう。この辺はもう一度読むときに考えたいところ。

 息子を喪った悲しみが前面に出てこない対話が余計読んでいてつらい。母親の苦い嫌味を飄々と躱す息子がつらい。対話し続けることで彼をこの場所につなぎ留めたい。そういう思いがあるのだろうけれど、切迫感がなく淡々と進む対話に母親の冷静な知性を感じる。とにかくすごい話。そしてこれが作者の実体験であり、同じく息子を亡くしてから数週間で書いたということが、すごい。本当にすごい。世界は広く人間は奥深い。

千早茜『ガーデン』感想

 千早茜さんの『ガーデン』を読みました。

ガーデン (文春文庫)

 面白かった。単行本で読んだのだけれど、文庫本の表紙も素敵。単行本も素敵。私はこの本を始めて訪れる洋食屋の窓際の席で読んだことをおぼえている。水が入ったコップの水滴とか、メニュー表がない店内とか、吊るされたワイングラスとか。本をどこかで読むとき、そういう場の記憶も漏れなくついてくる。そういうの、好き。

 人に興味がなく植物に愛情を寄せる男、羽野。彼の部屋は植物がたくさんあって、彼のための楽園。彼以外の人を寄せ付けない。

 女と植物。楽園。帰国子女。人に期待すること。勝手な他人像。

 さらりと読めるけれど思考はいくらでも深堀していける、そういう作品だなと思いました。中でも私がずっと気になっているのが、羽野という人間の閉鎖性。

 読みながら思ったのだけれど、羽野さんに私は似ているのかもしれなかった。私は彼ほど何かに執着することはないけれど、あまり人に興味が無いのかもしれないのだ。先がなく閉じられている感じ。羽野も作中で言っていたと思うけれど、それの何が悪いのだろう?

 何が悪いのだろう。悪くはないかもしれないけれど、グロテスクに見えるのかもしれない。羽野は少なくともその異常性、他の人から見れば奇異に見えるということがあまりわかっていないのかなと思った。

追記)「わかってない」のではなく、わかっていてもどうでもいい、他人が何を思おうが自分には関係がない。だって自分が愛していることだから。という感じなのかもしれない。難しい。あと、別に奇異だろうがなんだろうがそれは個人の自由で、個人的には羽野さんのように尖ってる人は好きだ。友達になれるかどうかはわからん。

 

もちろん自分の趣味嗜好に対する世間の反応は弁えているから、自己紹介でもかなり慎重に言葉を選んでいる節があるのだけれど、最後の方で既知のバーテンダー、緋奈から追及されるところは自身のグロテスクさを羽野がわかっていない証拠になる。

 物語の最後で、羽野は閉じられた世界から一歩出るような光が差した。実際は何もしないかもしれないけれど、羽野が自身の荒々しい欲望と対峙した結果だと思う。結局は欲望なのか、閉じた世界を壊すのは。私の閉じられた世界が壊れる日は来るのだろうか?今はその気配がない。そんなことを考えながら読みました。

ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』感想

 ジュンパ・ラヒリの『べつの言葉で』を読みました。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

 私の中でいくつかのルールがあって(本を読むこととは関係ないことでもたくさん)その中に、毎月1冊から数冊、本を買う、というのがある。普段は図書館本を読むことの多い私が、新しく出版された最近の本に触れる機会でもあるけれど、どんな本を買うかはあまり決めていない。書店に行って心惹かれたものを、が唯一の基準だろう。

 さて、私は10月の本としてこの本を買った。同じく10月にこの本を図書館から借りていたにも関わらず、だ。それは何を意味しているのか。私はもう一度読みたいし、これから何度でも読み返すだろうということだ。

 ラヒリは、両親が話すベンガル語と自身が用いる英語という二つの言語に引き裂かれている。どちらにも染まり切ることができないことの収まりの悪さ。彼女はやがて自身でベンガル語でも英語でもない、イタリア語という第三の語を見出し、ついには慣れ親しんだアメリカを飛び出しイタリアに移住してしまう!この本はそんな彼女がイタリア語と向き合う過程を描いたエッセイである。

 

dorian91.hateblo.jp

 

 ちなみに、先日読んだ『わたしのいるところ』は彼女がイタリア語で書いた小説。すごい。ちなみにちなみに、完全にラヒリさんの小説というか姿勢?に心打たれた私は、彼女の短編集(こちらは英語で書かれたもの)である『停電の夜に』も読んでしまった。これからまた別の作品も読んでみるつもり。

 この言語に引き裂かれるという感覚は私にはまず無いもの。それが幸せだとか不幸せだとか、言うつもりはないが、その「引き裂かれる」という感覚が無いということすら自覚する機会がない、というのは興味深いこと。私が話すこの言葉が、この日本語でコミュニケーションができるということは当たり前のことではないということに改めて気づかされた。多和田葉子さんの『地球にちりばめられて』も読み始めているけれど、驚くほどつながっていて震えている。母語とは何か。言葉を使うことができているということは何か。ぼんやりと考える日々だ。

 この表紙もめちゃめちゃ素敵。

 正直まだまだ内容を咀嚼しきれていないと思っているので、これから何度も読むために買ったと言ってもよい。

アガサ・クリスティー『ゼロ時間へ』感想

 アガサ・クリスティー『ゼロ時間へ』を読みました。

ゼロ時間へ (クリスティー文庫)

 

 2020年は江國香織の年であり、アガサ・クリスティーの年でもある。そしてそれは何もなければ2021年へと続いていくだろう、というのは私の読書予定です。またクリスティーの小説を読みました。

 

 以下の内容はネタバレになってしまうのでご注意を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ゼロ時間=殺人が達成される瞬間」という考え方に惹かれました。大体ミステリというものは、犯行が行われた後が大事になってくるわけですが、この本は構造を少しばかり工夫することで、ゼロ時間に向かっていく過程を綴ることができています。面白いですね…。だって、普通は殺人の事後なんですもんね。あーだこーだと登場人物たちの秘密が明らかになっていきます。ネヴィルというテニスプレイヤーとその前妻、後妻とそれらの養母やら友人たちやら親戚やらが集まった緊張感ある空間。ひりひりしました。前妻のオードリィがそれはミステリアスな人物として描かれているのが面白さを加速しています。オードリィ、怪しすぎた。そして劇中の「殺人」が単なる踏み台になってしまうのが、死者に対するこの上ない冒瀆だな、とも思いました。まあそういう犯人なんですけど…。

江國香織『とるにたらないものもの』感想

 江國香織さんの『とるにたらないものもの』を読みました。

とるにたらないものもの (集英社文庫)

 んんん~~好き。江國作品を読む2020であるけれど、この本は漏れていてたまたまSNSでその存在を知った。知ってまもなく、とある街を訪ねることがあって、そこのBOOKOFFで110円で売られていて「嘘だろ」と愕然としながらもちゃんと買いました。読みたいなぁと思っているときに、出会えるのは嬉しいです。古本も買うときは買います。

 江國さんのえがく空気感ってのが本当に好きで。ひとつひとつの出来事や物ものに対する愛情というか柔らかな、ときに面白がるような、そういうたっぷり感が私は大好きです。思考量がすごいなと思います。同じスポンジを見ていても、私と江國さんで考えること感じることは違うしそれは当たり前なのですが、その考えごとの深さがまるで違うのだろうなと思います。そして私は江國作品を読むたびに、斜め上を見上げたくなります。これぐらい深くたっぷりと考えてみたい、と。