8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

小川糸『卵を買いに』

 小川糸『卵を買いに』を読みました。

卵を買いに (幻冬舎文庫)

 エッセイを読むとき、私は他人の考えを借りる気持ちで読む。知らない場所、知らない食べ物、知らない景色、考えても見なかったこと、他人の考え。エッセイを読むことで多少なりともインプットできたと思う。

 他の人の考えていることが全然分からない。ずっとそう思って生きてきた。今もその傾向は変わらず、他人の表情や口調、仕草でその人の考えていることを推し量ろうとはしても、決して言葉にならない限り断定しないようにして生きてきた(できているかは別だが)。いや、言葉ですらその人が本当に思っていることとは限らない。

 エッセイでは、小説とは別の方法で書き手に近づくことができる。でも近づいたと思っても、完璧に理解することはできなくて、その不完全さが私と誰かとの差異なのだろう、なんてことを考えている。

 ラトビア、行ってみたい。このエッセイでしばしば出てくる国だ。バルト三国は「え・ら・り」と覚えていた。北から順番に、エストニアラトビアリトアニア、である。でもきっとこの本を読む前まではラトビアという国は知っていても、行きたいとはまでは思わなかっただろう。今も息をするように「ラトビアに行きたい」と言っている軽い感情であるけども。

 そうして私はまた何かを知る。何かを知ったような気になる。

 私はエッセイを読んだ。

アガサ・クリスティー『邪悪の家』感想

 アガサ・クリスティーの『邪悪の家』を読みました。

邪悪の家 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 「邪悪な」家ではなく、「邪悪の」家であるところが面白いと思いました。この家に愛着を持つニック、薄気味悪さを感じている使用人。なんでしょう、何かを所有することに執着する人の業、という気もしました。クリスティー作品は、愛憎のもつれによる殺人より資産目的な殺人が多いのではないか。

 ちょうど、フロムの『生きるということ』も読んでいたので、「所有」という言葉が感想として浮かびました。人々がここまで「持つ」ことにこだわらなければ、もしかしたら殺人事件はグッと少なくなるのかもしれない。

 そして相変わらずヘイスティングスよ。でもきっとそういう彼らしさをポアロは買っているところがあるのでしょう。実直であること、物事を疑わず正面から受け止めることは、一度その習慣から外れると以前歩いていた道に戻るのは大変なことでしょうから。逆は比較的簡単だと思いますし、タイミングで一気に染まることもありましょう。ヘイスティングスがそのままでいることは素晴らしいことなのかな、と思うことにします。

太宰治『斜陽』感想

 太宰治の『斜陽』を読みました。

斜陽

 

 太宰治は『人間失格』に次いで二冊目。いつも芥川龍之介と混同している。でも芥川と太宰って作風もテーマも違うのねと段々気づき始めている。

 この小説で「斜陽族」という言葉が生まれたほど。意味としては「急激な社会変動の為に没落の憂き目を見た上流階級」とのこと。

 

苛烈

 2021年に読んでも痺れるとはどういうことだ。主人公・かず子は売れない作家上原に恋をし、何通か彼に手紙を送る。その内容がま~~~~~~~~~~~~刺激的でぞくぞくする。やばいもんを読んでしまった、という感覚がすごい。名言のオンパレード。魂の叫び。かず子の視点で綴られる物語は全体として穏やかなものだけれど、この手紙パートは落差がすごい。

 

 かず子たち一家は爵位を持ってはいるようだけれど金銭的に苦慮していて、作中で長年暮らしてきた家を手放し、服や装飾品を始末。一言で言えば「生活能力がない」という事実が、じわじわと毒のように広がっていき、真綿で首を絞められている感覚です。

 

 人間って濃厚で面白い。そんなことを思いました。

エーリッヒ・フロム『生きるということ 新装版』感想

 エーリッヒ・フロム『生きるということ 新装版』を読みました。

生きるということ 新装版

 

 『愛するということ』とセットで本屋に平積みになっていた気がします。。そして『愛するということ』の方が平積みの山は低め(つまり捌けている?)印象。あくまで私の印象です。いずれは『愛するということ』も読みたいのだけれど、まずはこちらを読みました。おそらくだけれど、この本で主題となっている「持つこと」と「あること」の内容から「愛すること」は派生していると思います。

 To HaveからTo Beへ、と帯に書かれているように、これからの時代は「持つこと」ではなく「あること」へ舵を切っていきましょう、という話だと思いました。その為に「持つこと」とは何か、「あること」とは何か、そして新しい社会の為の具体的な策の提言までなされています。面白かった。

 直感的に「わ、わかる~~~」と頷きっぱなしでした。持つ様式は財産を私有することに端を発していて、ある様式はもっと能動的で与えることであり、分かち合うものであり、犠牲を払うものであるという理解。ある様式の例として芭蕉の俳句が出てきたのは面白かった。俳句についても勉強しようとメモメモ。

 人々が持つ様式からある様式にシフトするためには、社会を変えねばならないということで、終盤はどのように変えていくか、持つ様式を採用しているこの現代社会の問題はどこにあるのか、ということが記されています。

 実践できそうだなと思ったのが、戦闘的な消費運動を展開する、というくだり。健康な消費をしていきましょうという話です。例えば差別的な見解を発表している某化粧品・サプリ販売メーカーの不買運動だったり、あとは最近だとウイグル情勢に関するアパレルメーカーの動きに反応する購買者たちなど。買うことは投票することと同義だと思って、少しずつ考えながら買い方も変えていかねば、と思うところです。

 そしてやっぱりだけれど、社会を変えていくためには産業的政治的参加民主主義が不可欠ということで、この民主主義が成り立つために必要なことって何だろうと考えています。メディアによる権力の監視とか、情報リテラシーとか、まあ色々。ここがそもそもな~~~と思っているので、自分なりに関心を持っていきたいなと思います。

(以前ならこういう学術的な本は読んだとしても感想は書かなかったし、そもそも読み切れないことも多かったのだけれど、今後は読めてなくても理解できなくても読み通して自分の頭で考える癖をつけたい)

恩田陸『エンド・ゲーム』感想

 恩田陸『エンド・ゲーム』を読みました。

エンド・ゲーム 常野物語 (集英社文庫)

 恩田陸作品の中でも「常野シリーズ」と呼ばれている作品群の1つです。読んだことはあるけれど、再読はあまりしてないシリーズ。特に深く考えてはこなかったけれど、どうしてなのだろう。嫌いなわけでも苦手なわけでもないのに。この話を読んだのはおそらく中高生ぐらいの時でしょう。

 今回いちばん驚いたのは、自分が記憶していたあらすじと実際の物語のストーリーがかなり異なっていたこと。違う話が混ざってしまったのだろうか?腐食したイチゴとか銀色に光るボウリングのピンなどは覚えていたのに、それ以外のストーリーはどうやら間違えて?記憶していたようです。少しショック。記憶というのは本当に当てにならないものだなあと改めて思い知らされました。

 

『洗濯』

 時子たちが火浦に『洗濯』された後の世界がすごくグロテスクで印象的でした。その世界は欺瞞に満ちているということを読者はすぐに気づくわけですが、登場人物はそれがわかっていない(わからないふりをしている)。本当は麦茶なのにリンゴジュースだと思いながら飲んでいる人を見ているような、そういうはっきりとした違和感がしばらく続きました。

 しかしそこで思うのは、どうして偽っている人、嘘に満ちた世界に人は敏感になり違和感を抱くのだろう、なんなら気味悪く思うのだろう、ということです。当事者たちが安らかで幸せそうならそれでいいのではないか。本当のことは幸せとは必ずしも相性がよくないけれど、それでも真実を希求するのは人間の性(さが)なのか。

 

あれ

 時子たちが悩まされる『あれ』の存在は、作中も明確に説明されるわけではありませんでした。『あれ』がなんなのか最後まではっきりしない。

 「妄想を抱いた人が他者を取り込もうとする、自身の妄想の世界に巻き込もうとする際に生じた違和感への反応」とか「ある種の精神的疾患に反応したもので、その精神的疾患とは人間の中に元々いた古い生命体(この存在のおかげで人は知性や霊感を発達させていった)と関連している」とか、まあ、色々仮説はある。

 時子たちと『あれ』はオセロゲームの白と黒のようなもので、常に「裏返し」たり「裏返さ」れたりする。この攻防が『エンド・ゲーム』で描かれているのだと。

 ただ物語の終盤で、実は白と黒にはっきりと分かれていたものの区別はもはやなくて、白も黒も同じなのだと、白と黒がない、その中間として灰色を採用するならば、オセロ(世界)に存在する駒は表も裏も同じ灰色なんだということが明かされます。表も裏も区別がつかないのだから、ことりことりと裏返し裏返されることに意味はないということらしい。この説明を聞いて思い出したのは、すべてのピースが真っ白なジグソーパズルでしたけど、パズルをこの世界に持ち込むのはまた別物なので深堀はやめておきます。

 興味深いのは、「『あれ』に反応する人々が『あれ』に負けた」という表現ではなく「『あれ』に取り込まれた」という表現をしたところです。取り込まれたことは負けたことにはならないのだろうか。数の力で押し切られたということにはならないのだろうか、云々。

 『あれ』は視覚的に見えるものだけれども、目に見えない、例えば人々の価値観だと考えた時、実は『エンド・ゲーム』の世界はまったくの他人事ではなく、今この現代日本でも日々起こっていることなのではないかなあと思いました。陰謀論とかそういう話です。と考えると、時子たちが感じる強い恐怖は決して無縁なものではない。

 

気づかないふり

 恩田陸作品の登場人物は、総じて聡明でよく喋る(頭の中で)というのが私のイメージですが、そこに新たに加えたいのが「気づかないふりをしがち」という要素です。

 本当は気づいているのに、知っているのに、無意識に気づかないふりをしがち。恩田さんの物語はそうして心の奥底に封じ込めているものが解放される過程を描いていると言ってもいいかもしれないなあとまで思ってます。『蜜蜂と遠雷』はそもそも囚われてない風間塵に触発されて栄伝亜夜が解放されていく物語だし、『麦の海に浮かぶ果実』も本来の自分を取り戻す話。『ネバーランド』も思い出していく、過去から解放されていく話だし、『球形の季節』も高校生たちが変容していく話。そもそも小説において「何かに触れることで解放されていく人々」というある種のパターンはあるのだろうなとは思いますが。

 どうして囚われるのか、封印してしまうのかというと、恩田作品を読んでいると「気づいていることは苦しいこと」というイメージが浮かびます。物事に聡いことはそれだけ感覚が鋭く無用の苦しみが生まれ、気づかない人々との区別によって孤独感が生まれる。

 苦しみがあってもなお、解放されるべきである。作中で明確に「~されるべき」とは主張されてないものの、恩田作品の登場人物たちが最終的に解放されていく様を見ていると、多少の苦しみはあっても己を開放して聡明さを活かした方がいいという方向なのかなと思います。

 抑圧しているものから解き放たれること。恩田作品の中の登場人物たちが飛び立つ様を見ていると、そのきっかけはドラマティックで(なにせ小説なので)私たちの日常には滅多に起こらなそう。だからこそ小説を読むということは一つのきっかけになり得るのかもしれません。

アガサ・クリスティー『葬儀を終えて』感想

 アガサ・クリスティー『葬儀を終えて』を読みました。

葬儀を終えて

 

 個人的クリスティー作品TOP5に入りそうな作品です。とにかく登場人物が多いのですが、多少わからなくても読み進めることをおすすめします。そのうち嫌でも覚えますから。

 甥とか姪とか従姉妹とか、この作品の面白さは、そうした「まったく赤の他人ではないけれど近すぎもしない」血縁関係の中で繰り広げられるミステリーだからではないかと思います。実の父親とか、実の娘だと、もっと「じっとり」するのではないか?

 人々に慕われていたとある資産家の死。親族に平等に配分される遺産。あまりに平等であることが逆に思い入れの強い親族がいないことを意味していて、なんとも後味が悪いです。

 自分が持つ資質を受け継ぎそうな有能な姪もパートナーである男には恵まれず、資産家リチャードのちょっとした失望は、しかし、杞憂だったのかもしれないなあと物語を読み終える頃には思うのでした。リチャードに烙印を押されつつも、したたかにみんな生きていくのです。

 印象的だったのは。ポアロの推理も大詰め、最後に関係者をリチャードの屋敷に集め形見分けのようなものを行うシーン。いちばん価値のある品を誰が譲り受けるかの攻防が面白かったです。あの会話の面白さ、クリスティー本当にすごいなと思いました。テンポとか歯切れの良さとか。

 どうしてこの作品が好きなのかって、多分じっくりコトコトだからだと思います。丁寧に丁寧に登場人物たちの胸中に迫り、それぞれの性質を描写していく。出てくるリチャードの親族はあまり好ましく描かれてはいないのですが、読み終える頃には愛着を抱いてしまうところが「好き!」という感じです。

 結末もびっくり。確かにそうなんですよね…よくよく考えてみれば、というオチです。

江國香織『犬とハモニカ』感想

 江國香織『犬とハモニカ』を読みました。

犬とハモニカ (新潮文庫)

 いいですね、という感じ。昨年から随分と江國香織作品を読んできたなあと感慨深い気持ちになります。収録されている『アレンテージョ』は別のアンソロジーで読んだことがあって懐かしくなりました。車を運転しているパートナーからお弁当を差し出されるシーンが印象的だった。ゆで卵が登場するのです。ゆで卵、大好き!

dorian91.hateblo.jp

 

 なかでも好きなのは『ピクニック』という短編でした。カップルの微笑ましいピクニックのひとときなのだけれど、どこか普通じゃない不安定さにドキドキします。ピクニックも好き。

 江國香織はもはや物語の行く末が気にならない作家で、文字を目で追う今この瞬間が心地よすぎるのです。お話の先が気にならないなんて幸せです。