8月2日の書庫

本の感想を書くブログです。

土井善晴『一汁一菜でよいという提案』感想

 土井善晴『一汁一菜でよいという提案』を読みました。

一汁一菜でよいという提案

 

 積読していたのですが読み終えることができました(積読期間1年強)。

 なんというか、これは私の人生観になるのかもしれないですが、人という生き物は一生を通して自身の哲学を構築していく、という考えが自分の中にあります。本を読むということは他者の「哲学」の一端に触れることであり、土井さんのこの本を読みながらひしひしと感じました。つまりこの本は土井さんの料理に対する眼差しや考え方が色濃く表れているような気がしたのです。

 一汁一菜というのは、ご飯とお味噌汁(とオプションでお漬物もあり?)を基本とした食のスタイルです。この提案の背景にはそれこそ日本の従来の食文化などがあるわけですが、今の時代、料理を難しく考えすぎるあまり敬遠してしまう人が多いように見受けられるという危機感があるようです。なんとなくわかります。

 読み終えて実践したくなる本でした。実際に自分の生活に取り入れられるか?と聞かれたら今は無理ですけれど、一つの提案として、アイデアとして「一汁一菜」というのはずっと頭のメモに残しておきたいなと思います。料理にメリハリをつける(ハレの日とケの日など)というのは、料理以外にも応用できる考え方です。

宮部みゆき『とり残されて』感想

 宮部みゆきさんの『とり残されて』を読みました。

とり残されて (文春文庫)

 

 いいですね、宮部さんの話は。どれも良質な作品でした。

 宮部作品の主人公は、芯が強い。別で言い換えると、「頑固」と表現することもできて、そこに「妄執」みたいなものがプラスされると後は破滅への道を進むだけ、というような場合もある。その場合は行くところまで行くしかない。作品を読んでいると「止まるまで進むのみ」という言葉がよく思い浮かびます。

 「止まらない」ってどういうことだろうと思います。

 この世における惨状は、伏流水のように潜んでいた何かが突如噴出したような、あるいは、本当に突発的なタイプと、じっくりコトコト煮え続けようやく日の目を見る「満を持して」タイプがあるのかなあと思っていて、どうして止まらなかったんだろう、と思ってしまいます。誰か止められなかったのかな。途中でいくつもの検問がありバリケードがあり、止まるタイミングはあったはずなのにそれでも進んでしまった。そこから私たちは何か教訓を得られるはずだ、と。

 行くところまで行くしかないのかな。途中で止まれば、その地点がその人にとっての「行けるところまで」だったのかな。止められないのかな。

 私は各短編を読みながら、それぞれが止まった理由を意識しながら読みました。もちろん、「行けるところまで行く」タイプの話ばかりではありませんでしたが。本人が死ぬまでか、目的を達成するか、誰かが死んでますね。途中で引き返せるなら、最初から物語は生まれないのかな…(悶々)。

 

 ということで、面白かったです。私が好きなのは何だろう『いつも二人で』かな。

堀江敏幸編『記憶に残っていること』感想

 『記憶に残っていること』を読みました。

記憶に残っていること (新潮クレスト・ブックス 短篇小説ベスト・コレクション)

 新潮クレスト・ブックスから堀江敏幸さんが選りすぐった短編が収められています。どれも素晴らしい短編です。私はこの中に収められているラヒリの短編の雰囲気が好きで手に取りました。なんでしょう「この空気感が好き」を道しるべにしてたどり着いた場所、みたいな感じです。堀江さんが選んだというのが1つの量りであり、篩だと思っていて、収められている作品どれかが好きならきっと全編面白く読めるのではなかろうか?と思います。そういうのが○○セレクションの強みですね。そしてまたここから新たな作家を知ることになる。○○セレクション(コレクション)はなんだかハブ空港みたいです。

江國香織『なつのひかり』感想

 江國香織さんの『なつのひかり』を読みました。

なつのひかり (集英社文庫)

 

 小説を読むのは、何か目的があるわけではない(この場合の「目的」とは何が当たるだろう、語彙力強化とか、知識収集とか、そういうの?)。楽しいからでもない。私にとってはただ習慣なだけであり、プラスして小説を読まないと好きな自分でいられなくなる気がするから、私は小説を読む。

 そんな目的なき読書であるが、読書という行為にどんなメリットがあるだろうと考えたとき、私は「可能性を尊重する力が養われる」と答える。

 物語上起きる出来事は、それがフィクションであれノンフィクションであれ、既に書かれたこととして存在する。私がそれを読んだ時点で既に存在する。その事実を否定することはできない。

 読むということは、読み進めるということは、目の間に差し出された盃に口をつけなければならないことと同義だ。

 なあに、これ。へんてこな物語。

 そう切って捨てることは可能だけれど、それでは面白くないから私は物語に従属する。

 この『なつのひかり』という作品は「なあに、これ。へんてこな物語ね」という感想がまずは浮かぶ作品でした。とてもファンタジー。ファンタジーです。不思議な物語だった。でも私は結局それを飲みました。だって不思議だから。悪くない感覚です。

アガサ・クリスティー『死との約束』感想

 アガサ・クリスティーの『死との約束』を読みました。

死との約束 (クリスティー文庫)

 

 先日、三谷幸喜の脚本でドラマ化された作品。面白かったのでぜひ原作を読みたいと思い手に取りました。

 こちらも面白かったですね。クリスティーは人間の集団における感情の機微を描くのが本当にうまいなと感じます。もはやミステリ作品として読んでないところがある。

 『ナイルに死す』だったり時々場所の力が強い作品を書くのも特徴なのかもしれません。今回はペトラという異国の地の気配が濃厚でした。

 『スタイルズ荘の怪事件』もそうですが、死んでからは遅い、ということを考えてしまいます。ボイントン夫人だって息子娘たちと良好な関係を築ける可能性はあったわけで、彼女の抑圧から解放された彼ら彼女らの幸せな風景を読むと、なんだか悲しくなってしまいます。ボイントン夫人に同情を寄せるつもりはありませんが、その寂寞とした読後感(ボイントン夫人は孤独でした)がまた良い味を出していると思います。

島本理生『匿名者のためのスピカ』感想

 島本理生さんの『匿名者のためのスピカ』を読みました。

匿名者のためのスピカ

 

 私はこの本を読んで「七澤君!!!」となりました。案の定女性読者に人気の登場人物らしい。主人公の笠井君よりよほど「七澤君」だろう。でも七澤君は主人公ではありえない。直感的に、それは間違いがないことだと思いました。

 自分がどのような人物を好むだろうと考える。言語化すると、たぶん内省的な人物に魅かれがち。自分をみつめる眼差しを持つ人。その眼光がきめ細やかな人。自分自身を知っている人。なので笠井君より七澤君なのです。

 

 人を責める気になれない。

 『森の家』となんだか似たような読後感になってしまった。

 

 人は信じたいものを信じる。

 そこに干渉することはできるのか、私にはわからない。宗教的なものだけでなく、思想的なもので考えればもっと身近だと思う。昨今問題となっている陰謀論なんかはまさに。他にもねずみ講とかね。正直に言えば、私は自分の近しい人を説得できる自信がないな。その体力も無さそう。

 何を以て歪んでいると判断できるのだろう。その判断軸となる正しさは本当に正しいものなのだろうか。絶対的な正しさなどないこの世界で、何が歪んでいるのかあげつらうことに意味があるのか。歪みと寄り添うことしか道はないのだろうか、云々考えました。

 でも、私だって、人を信じたいし。人に溺れたい。何も考えず信じられる人がいたならば、そう思えたならば、きっと人生はもっと楽で甘美なものになるのだろうなと思います。でもそんなことはあり得ない。あり得ないと知っていたけれど、景織子の現実はそのままを受け止めるには辛すぎて、彼女には重すぎたということなのかな。

 似たような境遇でちがう道を歩いた七澤と景織子の違いがスパイスになっていると思いました。

千早茜『森の家』感想

 千早茜さんの『森の家』を読みました。

森の家 (講談社文庫)

 

 小説に登場する人物たちを嫌いになることはあるか。

 そう訊かれたら、私は「限りなくゼロに近いNo」と答えると思う。つまり、よほどのことが無い限り、嫌いになることは無い。

 ただ、強いネガティブな感情を抱くことはある。具体的には「みりさんみたいな人が近くにいたら、わたしだったら腹が立つだろうな」と思った。それは苛立ちに近い感情だと思う。

 それでも私がみりさんのことを嫌いにならないのは、「え、私、他人のことを嫌いにならない善良な人間なんです」と言いたいってのもあると思うし、別の理由もある。

 みりさん視点で進められる章「水の音」や、彼女と暮らす(暮らしたことがある)まりもくんや佐藤さん視点で描かれる「みりさん」像に触れ、人間というのは視点によって見え方はまったく変わるということを改めて感じたからだ。

 多分腹が立つ人間であっても、小説で描かれてしまえば許せてしまうのかもしれない。政治家だとか仕事で関わるいけ好かない上司とか実の父親だとか。

 

 そんなことを思いました。

 「なんだこの三人、揃いも揃ってどうしようもない」という感想は、小説においては的外れだと思っていて、そのどうしようもなさに形を与えるのが小説だろう?って思ってます。そして彼ら彼女らの持つ「どうしようもなさ」は決して他人事ではないんです。